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畑仕事、キャンピングカーの旅、サウナ、読書…晴耕雨読の日々を綴る【いくら君のこころととのう日記】

       いくら君のこころととのう日記
読書について 2025年6月26日

福岡伸一『生物と無生物の間』読了

 自分の中で、最近、福岡伸一ブームである。何がいいって、やはり文章がいい。上手いし、美しいし、また本として、読み物として、読者をぐいぐい引っ張っていく力がある。それは、彼の中で計算され尽くした構成が、そういった牽引力を生み出しているのである。

 

 さて本作。これは、大変な名著である。驚いた。感激した。生物学者の生物に対するわかりやすい解説書ではあるが、それだけには収まらない読み物としての豊かさがある。時に、わかりやすい解説でDNAとは何かを知り、膵臓の仕組みを知り、ポスドクの悲哀を感じ、研究、あるいは研究者とは何者なのか、果たしてその意味は、などなど、新たな知見に出会い、見聞を広める効果があるのだが、それよりも何よりも、私が驚いた、というか、感動したのは、福岡氏の物語の構成の上手さだ。まるでミステリー小説を読むように、ぐいぐいと生物学の最前線にある真実に近づいていく感じ、牽引力、構成力、そして何よりも文章のうまさ。

 福岡氏が、ニューヨークにあるロックフェラー大学、あるいは研究室ごと移ったボストンの大学での、ポスドクとして研究に没頭した生活を大きな軸に据えながら、話は度々脱線する。しかし、枝道は必ず本筋に帰ってきて、我々読者を豊かな思いにさせてくれる。

 繰り返すが、本作は、本当に名著である。氏には多数の著作があるし、私が全てを網羅しているわけではないが、正真正銘これは本物であり、エンターテーメントとしても優れている。みなさんぜひ一読を。

 五月二十日より、新たな小説を執筆しており、読書はしているのだが、どうにもブログまで手が回らず、ご無沙汰である。農業系もサウナ系も、最近は新たな発見がなく、記事を書く気力が湧かない。言い訳に過ぎないが。

「森鴎外、自分を探す」以降読んだ本を列挙しておく。福岡伸一「動的平衡は利他に通じる」、岩波ブックレット「生命と食」、マルクス・ガブリエル「時間・自己・幻想」、以上。

 

その他のこと 2025年6月8日

阿部大輔&津川久里子ライブ

 昨日(2025,6,7sut)、ギター師匠霜田くんに誘われ、相模大野あこぱで開催された、「阿部大輔&津川久里子」ライブに行ってきました。阿部氏はギター津川氏はウッドベース、ともにバークリー音楽大学でジャズを極め、ニューヨークで音楽活動をされていたが、東日本大震災以後に帰国、現在は八王子を拠点に音楽活動をされているご夫婦です。恥ずかしながら、いくら君は存じ上げませんでした。

 十五時開演。霜田&志賀が前座と務めるという。これは行かなきゃ、と、参上したのでした。3千円+2ドリンク、が入場料。3曲ほど霜志賀の演奏。どうも志賀さんが走るし、裏に引けないところが、どうにも痛い。霜田は控えめすぎ。数ヶ月前の新鮮な感動はどこぞへ飛んで生意気にも批評的視線で二人を見る(聴く)いくらくんなのでした。

 そして、いよいよ真打登場。ギター阿部氏=修行僧・ギターの求道者のイメージ。ウッドベース津川氏は、ステージではとても可愛らしい、あるいは魅力的な、時にはちょーセクシーな表情をする40代半ば〜後半?のお二人。最初は、最新アルバムより。日本の童謡を津川氏が歌う。素朴で素直な音。激しく音楽を極めると、それもジャズを、それもアメリカで、ぐるっと一周して、こんなところへ到達するのか、という感じ。穏やかで素晴らしい演奏でした。が、ちょっと物足りない。それから、二人のニューヨーク生活におけるトークを絡めてのオリジナル作品。当たり前だけど、プロは、やっぱりすごいなあ。無理して難しいことはやらない。いや、難しいことをやっているのに、そう感じさせない、ということなのかしら。あるいは、すごく自然もスッといくらくんも体に入ってくる。前座には、早い!今間違えた!などなど、と大変上手いにも関わらず、ストレートに音楽が入ってこない。ところが、彼らは違う。すこい、美しい。かっこいい。技術的な高さを見せない。ねえねえ、旨いでしょう? 私こんなこともできるんだよ!みたいな子供じみた演奏は一歳ない。大人控えめ。でも、個性的。でも、穏やか、でも、心踊る、みたいな。

 学生相撲の優勝さも、大相撲に入ると空きし勝てなくなることはよくある(大野里は別格)。霜志賀も相当うまい。でも、すごくうまい素人なのでした。すごく旨い素人とプロの間には大変大きな溝というかというか、飛躍があるのを感じ入りました。さて、いくら君の文章はプロのそれに近付いているのか?いやはや、恐ろしい問いなのでした。

 一部が終了し、カウンターへ飲み物の注文に行くと、そこでステージを背に向けた二人のの子供(姉弟)が何やら絵を描いている。弟(推定小3)はコマ割りして黒ペン一色で漫画らしきものを描いている、それが、結構うまい! お隣のお姉ちゃん(小5確認済み)は36色の色鉛筆を駆使してA4ほどの画用紙にファンキーな絵を描いている。はて、彼らは何? まさか演奏者のお子さん? 休憩時間中、彼らはお絵描きの手を休め、受付付近で両親のアルバムを数枚ならべ、営業活動を始める。あらーできた子だこと! 弟はオリジナルシールや人形を20円とか50円で売っている。いや、将来が楽しみなお二人! 

 いくら君は、本頁冒頭にジャケット写真を置いた最新アルバムを2500円で購入したのだった。そうした姉が父を呼びつけ、サインをさせる。父は妻をよびサインをするという展開。家内性手工業極まれり。ちなみに、先ほど、可愛い・魅力的・セクシーなどと表現した久里子さんですが、お母さんの顔の時は普通のおばさんでした(失礼!)。

 第二部は、ジャズのナンバーから、バークーリ時代の友人(ギーたー・サックス)を交えたセッション開始。これがいいんだなあ、ノリノリで、打ち合わせなんか一切していないのに、リズムも音もガチんとあって、それぞれアイコンタクトでソロパートを回すかっこよさ! 本当に、体の芯まで、嫌、細胞の一つ一つにまで音楽が染み込んでいるみたい。まるで古漬けのきゅうりみたいに、染み込んで馴染んでいい味出してる。さらにさらに、素人の霜志賀までセッションに加わり最後は大盛り上がりの大団円!。

 妻に報告したら、また、ギターやりたくなったというので、

 

いやいや、とんでもございません。あれ見たら無理無理、オレなんか100年経っても1000年経っても、あそこまで行きつかない。逆にやる気失せた。と、いくらくんはさっぱりと脱ギター宣言をするのでした。

読書について 2025年6月8日

出口智之『森鷗外、自分を探す』読了

 昔、若い頃、漱石と鷗外が明治の二大巨頭として並び称される理由が今ひとつわからなかった。両者とも明治初期に西欧に留学し(鷗外はドイツ、漱石はイギリス)に、先進知識のみならず、近代的個人主義的思想を身につけ帰国し、古い体質のままの日本の慣習と戦いながら、最前線の知を啓蒙する、また、華々しい学歴など、共通する面は多々あれども、全身小説家である漱石に対し、鷗外の小説は少なく、また、歴史小説など晩年は誰も読まないようなものを残す、文学者というより知の巨人のイメージであった。また、作家になるため宮仕をさっさと辞めちゃう漱石に対し、陸軍の軍医として最高峰を極め、軍事引退後も、文化的分野において宮仕をし続けた鷗外。人間的な漱石に対して、あまりに出来杉くんの鷗外。小説家としての印象が、若い私にとって、鷗外はあまりに薄かった。

 もちろん、私なりに齢を重ね、勉強も深まるにつれ、人としての鷗外が見え始め、二大巨頭と称されるのは当然であり、というより、その二人が明治時代において、近代日本の精神的支柱としてあまりに突出していたことを肌で感じるられるようになったのである。

 そして、本書に出会う。最初「岩波ジュニア新書」の「ジュニア」に引っ掛かりを覚えながら頁をくり始めたものの、そんなことはすぐに忘れ、筆者の見識、ものの見方、資料を駆使した執筆の姿勢に、刺激され、私の中での新しい鷗外像がさらに焦点を合わせクリアになってきたのだった。

 ものの始めは「舞姫」の扱いである。私も晩年、国語教師として「舞姫」の扱いには苦慮した思いがある。まず、若い教員がやりたがらない。生徒が、主人公太田豊太郎を、頭はいいけど、優柔不断で女を孕ませたものの捨ててエリートコースを選択する極悪人としての読み一択である点(特に女生徒)。私が授業で性的な話題に触れ、女性と2名によって、勤務する神奈川県教育委員会に苦情が挙げられたこと、など今までの授業のあり方では、なかなか通らない現状に困惑したのである。私が早期退職した理由の一つが「舞姫」であったことも事実である。

 筆者は、この「ダメ人間豊太郎」の読みを、懸命に現代的視点を取り入れながら、若者たちを納得させる形で、豊太郎の名誉を回復させる、あるいは、さらに深い読みを提出する点に大いに力を得ることになった。さらに、エリーゼに関する旧弊な社会との葛藤、一人目の妻との葛藤、陸軍人としての小倉時代(左遷?)の葛藤、二人目の妻と母親との、嫁姑問題の狭間での葛藤、といった生活面での苦悩がありながらも、一方で役人としての栄誉を極め、また作家・文人としてのレベルの高い大量の仕事、また、妻からの愛され方、あるいは、子供たちからの愛され方、など、鷗外の人生の濃密さに驚くとともに、律儀さに感心しながらも、最期「石見県人、森林太郎として死す」、つまり、一才の肩書は虚飾であり、私は一個人として死ぬのだ、という強いというか、寂しいというか、の宣言、とうとう、驚きの連続で、大変勉強になった。

 筆者は1981年生まれの東大の准教授。オレよりの二十歳若い。嗚呼。

読書について 2025年6月4日

ホセ・ムヒカ 心を揺さぶるスピーチ 読了

「世界で一番貧しい大統領と呼ばれたホセ・ムヒカ 心を揺さぶるスピーチ」読了。

先日(5/13)に、南米ウルグアイの元大統領「ホセ・ムヒカ」氏が亡くなった、と新聞にあった。享年90である。

思い出した。「世界で一番貧しい大統領」のキャッチフレーズで一時期大いにマスコミにもてはやされた。マスコミ等で彼の発言を知るにあたり、私も大いに共感したものだ。今回、死去の知らせを聞き、もう少し、彼について勉強しようと思い、本書を手に取った。

1935年五月二十日生まれ。昭和でいえば十年か。日本ではまさに軍国主義の号令が厳しくなり始める頃のことである。彼は、ウルグアイのとても貧しい家庭に生まれた。そして、皆に平和をもたらすには、分配が必要である、一部の人間に資産が偏っている現状が間違いである。と、判断し、左翼ゲリラとなる。四回投獄され通年で十五年もの間牢屋で過ごすことになる。その時、彼は、考えた。まず、過激派いけない。中庸が大切である。皆に、平等の社会をもたらすにはどうすれば良いか? そして、彼は左翼政党を立ち上げ、国会議員となり、そして、ウルグアイ第40代大統領に就任する。

しかし、彼は公邸には済まなかった。理由は公邸にすぬためには五十二人の人件費が必要だ。その分を教育に使いたい。そして、彼は、一国の大統領でありながら、二人の護衛のみで、小さな平屋の倉庫と言っても差し支えないような質素な家で愛する妻と過ごし、大統領職を全うする。友人からもらったフォルクスワーゲン・ビートル自分で運転し、職務につき、自宅では菜園を楽しむ。アラブの資産家がその車を100万ドルで買いたい、と、申し入れても断ったという。

こんなエピソードも。海外出張の時は民間機のエコノミークラスか、隣国の政府専用機に便乗させてもらっていた! あるいは、ある日の夕暮れ、ヒッチハイクをすると、オンボロなワーゲンビートルがようやく止まってくれた。助手席を見ると、ムヒかの奥さん、薄露の席には政府の要人の乗車している。もしかしてと運転席を覗き込むと、ホセ・ムヒカ大統領がハンドルを握っていた。彼は、自宅までの道のり大統領達ととても有意義な時間を過ごした、とのことである。

「私は貧しいのではない。質素なのである。」と、彼はいう。「貧しい人とは、少ししか持っていない人のことではなく、際限なく欲しがる人、いくらあっても満足しない人のことだ」という。近代以降の物質主義を批判し、だからと言って、否定するわけでもなく、うまく付き合うことが大切だともいう。現代は人々の欲情をあおるもので溢れかえっている。モノ・モノ・モノ。必要もないものなで買い込み、無駄にする。あるいは、もっと広い家が欲しい。もっと性能のいい車が欲しい。そして、ローンを組んで、返済のために汲々とした生活を送り、自身の人生を楽しむまもなく、老いていく。まった、愚かしいにも程がある。

モノは最低限あればいい。あまりない方がいい。でも、なさすぎてもいけない。中庸が肝心だ、そんな社会が正しいものだと思い知らされた。

読書について 2025年5月28日

ハラリ『NEXUS情報の人類史』読了

ようやく読了。やく一ヶ月本書に付き合ってきた。

 著者ユヴァル・ノア・ハラリは、1976年生まれの歴史学者であり、現在はイスラエルのヘブライ大学で教鞭を取っている。もともとヘブライ語で書かれた『サピエンス全史』の英語版が2014年に発表されて以来、『ホモ・デウス』『21LESSN』等々、世界的ベストセラーを連発している、新進気鋭の知の巨人である。その彼が6年の歳月をかけ、全人類に警鐘を鳴らすため表されたのが本書である。タイトルにある「NEXUS」は「絆」「つながり」「関連性」を表す英語である。

「サピエンス全史」の頃から言われているように、我々人類は強い力も牙も爪も持っていないのに、この地球の頂点として君臨することができたか。それは、他者と力を合わせることができるから、である。話し合い、あるいは命令し、そして一つの世界観に向かって全体で力を合わせ社会を作ってきた。それが、紙の発明からラジオ・テレビを通じて、少ない集団でしかなし得なかった「民主主義」や「全体主義」を、数億人規模で可能にすることができるようになった。それを可能にしてきたのはまさに「情報」である。しかし、紙も電波も彼自身で意思を持ち、主体的に発することはできなかった。人間が「使う」ことでそれらは民主主義が実現できたり、スターリンの支配を可能にしてきた。情報を掌握するものの勝利である。

と ころがである、2016年にAIが人間の囲碁チャンピオンを破って以来、アルゴリズム一人歩きするがごとく進化した。我々は日々、スマートフォンでさまざまな検索を行い、Amazonで物を購入し、フェイスブックで自らの情報を流し、Xに意見を書き散らす。ちょっと前、就職活動中の学生が面接官に裏アカウントでの反社会的な言動を指摘され、就職試験に落ちたという話があった。追おうと思えば、裏アカウントでも本人の個人情報・カード番号・資産・性癖・思想・嗜好を特定することができる。Amazonは世界中の人間の個人情報を蓄積し、フェイスブックのアルゴリズムはフェイクニュースを自身で作り垂れ流す。帝国は植民地から原材料を略奪し、製品を高額で売りつけることで巨大帝国となった。しかし、今や、そんな面倒なことをせずとも良い。

 情報だ。北京にあるいはサンフランシスコに個人のデータが集積される。人々が嬉々としてアップするネコの画像をAI自身が学習することによって、認証システムは格段に上がった。イランで、無数の監視カメラはヒジャブを着用しない女性を探し出し、検挙し投獄している。石破茂の趣味・性癖・病歴等がアメリカののコンピュウータの中で蓄積されているのだ。

 最も恐るべきことは、AIが彼自身学習することだ。人間が数万年かけて磨き上げた知や文化をあっという間に超えるであろうし、アルゴリズムのバグで人間を奴隷にしたり抹殺する方向に発展する可能性だって大いにある。第一彼らは死なない。血が流れない。苦しくない。欲望がない。だから、平然と躊躇いも葛藤もなく核を飛ばすことだって可能である。

 人間の知は素晴らしい側面もあるが愚かでもある。愚かなことを繰り返しながら、それでも失敗し自己学習してきた。多くの痛みや犠牲を払って。結局人間は完璧ではない。常に間違う可能性を孕んでいる、だから、方向を正すことができる。しかし、AIは?

 

 あと、10年で世界は全く違うものになってしまう可能性は大いにある。習近平やプーチンが築いた全体主義を乗っ取り、AIがプーチンや習近平やトランプを操る時代が来る、と、思うと身の毛がよだつ思いがする。

読書について 2025年5月1日

ロフティング『ドリトル先生航海記』読了

 福岡伸一からのドリトル先生。本家ナチュラリスト冒険物語です。訳者「井伏鱒二」は博物学者と訳しています。本シリーズは土木技師であった作者ロフティングがアフリカなどに赴任中、子供たちに宛てた手紙が元になっているそうです。シリーズ最初『ドリトル先生アフリカ行き』は、三人称視点で語られますが、2作目の本作から「トミー・スタビンズ」の視点で語られます。

 今は老人になっているスタビンズが自身の少年時代を懐古し、忘れえぬ思い出として「ドリトル先生」の物語を語るという程です。舞台になっているのは1870、80年代頃の世界です。

 「ドリトル先生」は動物と会話ができ、家にはありとあらゆる動物が住んでいる、偉大なるナチュラリストです。ドリトル先生と知り合った、靴屋の息子「スタビンズ」=「私」は貧しく学校にも行かせてもらえませんが、先生からたくさんのことを学び、内弟子のような形で住み込みで先生の研究を補佐していきます。

 そして、世界に向けて船出し、さまざまな困難に出逢いますが、スーパーマン「ドリトル先生」は次々困難を回避し、「くもさる島」の王にまで即位してしまいますが、「海カタツムリ」と知り合うことで、王位を放棄し、故郷に帰ってきます。

 息つく暇なき、冒険の数々。子供の頃にこれを読んだら、夢中になること必至です。福岡少年は、この作品を通して世界を理解し、生物学者になってしまったのだから、本作の影響力たるはすごいものがあります。

 

ちなみに「ドリトル」は「Do little」、つまり、少ししか働かない、怠け者、のようなニュアンスだそうです。

競馬について 2025年4月23日

皐月賞三連単

いやー長かった。

昨年は、一つも万馬券が取れなかった。

ようやくだ。

今年のG I戦線は調子がいい。2月23日の「フェブラリーS」を皮切りに昨週まで「高松宮記念」「大阪杯」「桜花賞」「皐月賞」と5戦あったのだが、落としたのは「桜花賞」のみ。まあ、馬連で配当もおとなしいものだったが。

先週末(19日20日)は最初から調子が良かった。2000円の元手を少しずつ増やし、「皐月賞」直前には5000円ほどになっていた。それをすべて、馬連・三連服・三連単に突っ込んだ。

 

で、きた!

 今年はルメールよりも、戸崎よりも、「モレイラ」だな。三番人気「ミュージアムマイル」を先頭に、ルメール騎乗の一番人気「クロワデュノール」を蹴散らし、3着に「マスカレードボール」が突っ込んできた。

 

馬連は680円とカタイが、三連単は22670円!

 

今年初の万馬券だ。いいぞ!いけー!

読書について 2025年4月23日

福岡伸一『ナチュラリスト』読了

いい本だった。

 著者が「ナチュラリスト」として成長していく過程及びそれに関わる哲学を、さまざまな具体を引き合いに出しながら、著述した作品である。

 著者は「ドリトル先生」シリーズの愛読者であり、第二弾である『ドリトル先生航海記』から登場し、以後全ての作品の語り手となる「スタビンズ少年」に自己を投影し、ドリトル先生の世界に親しむことで「ナチュラリスト」としての道を歩み出す。ちなみに「ドリトル先生」シリーズの最初の翻訳者井伏鱒二であり、彼が「ナチュラリスト」を「博物学者」と訳したそうだ。

 蝶に、あるいは昆虫に興味をもち、それが「自然」全体に広がっていく。「シンイチ少年」の基本は「センス・オブ・ワンダー」にある。「自然の細部に触れた時の喜び、それに対するフェアネスあるいは謙虚さ」(p26)が「the sence of wander」だと彼はいう。その感覚を伸ばし広げ、「シンイチ少年」はいつの日か、分子生物学者「福岡伸一」になる。それは恵まれた才能と努力の成果なのであるが、彼は忘れなかった。

 人は一定の成果をあげ名声を得ると、築いたものを失うまいとそれに執着するであろう。密かに秘められた疑問に目を向けず頑固に過去に固執するケースがほとんではないか? 福岡伸一の偉大さは、分子生物学者として成果をあげたことにはない。そうではなく、いつまでも少年の「センス・オブ・ワンダー」を忘れなかった点にある。

 青山学院大学理学部教授として分子生物学者としての研究を進めていた彼だが、その研究室を周到な準備のもと畳んでしまう。もちろん院生の将来に配慮し、助教たちの次なる仕事場を斡旋してから。そして彼は東日本大震災とあった年、青山学院大学総合文化政策学部に移籍する。つまり、研究者としての文転だ。

 彼は分子生物学者として数々の論文を発表し、新発見をもする。その道で大いに成果をあげた、いわば、成功者なのだ。にもかかわらず、それらの研究のために「私は一体何匹のネズミたちを殺しただろう?」さらに「私の指先には、蛹から出てきたばかりの町の胸を圧した時の感触が残って」いる、というのだ。「ネズミを切り刻み、細胞をこじ開け、遺伝子を切り貼りして、世界を分けて」行った。研究はいわば世界を秩序立てることであり、剥製にラベルをつけることに等しい。彼の根本にある「センス・オブ・ワンダー」とはかけ離れたものになってしまった。そして、その違和感や疑問を梃子に本物の「ナチュラリスト」に、彼はなるのだ。

 

「機械論的な生命観は、生命をたわめた作り物だ。一旦はこの作り物を通らない限り、生命の細部を見極めることはできない。が、しかし、大切なことはこのロゴス的な作り物を通り抜けて、もういちどみずみずしピュシスに満ち溢れた自然に戻ること、つまり動的平衡の生命観に回帰することが学問の本質そのもののはずだ。これを持って私のナチュラリスト宣言としたい。p264」

その他のこと 2025年4月7日

睡眠

ここ最近,うまく眠れない。寝ついても,すぐ目が覚め,それから寝ているんだか、起きているんだか判然としない数時間を過ごし,時間になって布団を出る。

横浜へ行く途中,電車の中でわずか10分程度だが,深く落ちた。疲れているんだなぁと,改めて実感した。

読書について 2025年4月1日

川端康成『雪国』読了

  文学を志して50年

 恥ずかしながら、「雪国」を今まで通読したことがありませんでした。もちろん何回か挑戦したことはあります。しかし、どうにも川端の新感覚派的手法(なんていうのかな感覚的なんですとにかく。説明なく跳ぶんです。意識の流れってやつですかね)についていけず、イクラくんが物心ついた頃にはもうノーベル賞作家であり、大先生であったにも関わらず、川端作品は読まずに(読めずに)いました。やはり太宰から入り、一応漱石を抑えてから、性に目覚めたイクラくんは三島・谷崎と深入りしていったのです。そこには川端の席はありませんでした。大学では越後湯沢出身の小堺くんだけが川端をやってました。

 で、最近、「眠れる美女」の世界にハマり、ちょくちょく川端作品を手に取るようになったわけですが、若い頃はわからなかった男と女の情みたいなものが少しわかるようになってきた、というか、腑に落ちるようになってきたのです。読めるとわかる、川端の偉大さ凄さヤバさ。

 冒頭部は子供の頃から知っていました。超有名な始まり。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」

 完璧な始まりです。ここで黒から白へ都会から田舎へ。一気に世界を反転させる仕掛けを提示します。そして、読者をこの世界観へ導くまでの大変ナイーブな部分、具体的に言えば、座席の目の前の女性(葉子)と病人の男そして、凍えた窓ガラスに移る葉子の美しい姿とガラスの向こうの景色が交差する部分。ここの描写は本当に素晴らしい。繊細な状況を繊細なタッチで、丁寧に、でも投げやりに描く様子が目み浮かぶようです。作者もかなり苦労したのではないかな? 何度も何度も書き直したような気がします。

 そして駒子との再会と、過去へ戻って出会いの場面。ここまでが世界観を読者に伝えるなかなか手ごわい場所だと言える。

 その後は割と手慣れた感じで、感覚的に理屈をすっ飛ばしながら駒子の情熱と男の感動や不感症な冷めた視線・悲しみ・空虚、そして葉子への関心とラストの火事のシーンと進みます。どこまでも繊細でナーバスで男と女の機微で満載でした。

 割と最初の部分で島村が左手の人差し指を突き立て、これが駒子を覚えていた、というあたりは、まあ、なんとえっちなのでしょう!と、いいおっさんのいくらくんでも頬を染めたくらいセクシーなのでした。

 ああ、これから、ちょっと川端を真剣に研究しなきゃならないなあ。

 これは、長い歳月と、情熱と空虚、あるいは大変な贅沢が昇華された結晶のような作品でした。

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