皐月賞三連単
いやー長かった。
昨年は、一つも万馬券が取れなかった。
ようやくだ。
今年のG I戦線は調子がいい。2月23日の「フェブラリーS」を皮切りに昨週まで「高松宮記念」「大阪杯」「桜花賞」「皐月賞」と5戦あったのだが、落としたのは「桜花賞」のみ。まあ、馬連で配当もおとなしいものだったが。
先週末(19日20日)は最初から調子が良かった。2000円の元手を少しずつ増やし、「皐月賞」直前には5000円ほどになっていた。それをすべて、馬連・三連服・三連単に突っ込んだ。
で、きた!
今年はルメールよりも、戸崎よりも、「モレイラ」だな。三番人気「ミュージアムマイル」を先頭に、ルメール騎乗の一番人気「クロワデュノール」を蹴散らし、3着に「マスカレードボール」が突っ込んできた。
馬連は680円とカタイが、三連単は22670円!
今年初の万馬券だ。いいぞ!いけー!
福岡伸一『ナチュラリスト』読了
いい本だった。
著者が「ナチュラリスト」として成長していく過程及びそれに関わる哲学を、さまざまな具体を引き合いに出しながら、著述した作品である。
著者は「ドリトル先生」シリーズの愛読者であり、第二弾である『ドリトル先生航海記』から登場し、以後全ての作品の語り手となる「スタビンズ少年」に自己を投影し、ドリトル先生の世界に親しむことで「ナチュラリスト」としての道を歩み出す。ちなみに「ドリトル先生」シリーズの最初の翻訳者井伏鱒二であり、彼が「ナチュラリスト」を「博物学者」と訳したそうだ。
蝶に、あるいは昆虫に興味をもち、それが「自然」全体に広がっていく。「シンイチ少年」の基本は「センス・オブ・ワンダー」にある。「自然の細部に触れた時の喜び、それに対するフェアネスあるいは謙虚さ」(p26)が「the sence of wander」だと彼はいう。その感覚を伸ばし広げ、「シンイチ少年」はいつの日か、分子生物学者「福岡伸一」になる。それは恵まれた才能と努力の成果なのであるが、彼は忘れなかった。
人は一定の成果をあげ名声を得ると、築いたものを失うまいとそれに執着するであろう。密かに秘められた疑問に目を向けず頑固に過去に固執するケースがほとんではないか? 福岡伸一の偉大さは、分子生物学者として成果をあげたことにはない。そうではなく、いつまでも少年の「センス・オブ・ワンダー」を忘れなかった点にある。
青山学院大学理学部教授として分子生物学者としての研究を進めていた彼だが、その研究室を周到な準備のもと畳んでしまう。もちろん院生の将来に配慮し、助教たちの次なる仕事場を斡旋してから。そして彼は東日本大震災とあった年、青山学院大学総合文化政策学部に移籍する。つまり、研究者としての文転だ。
彼は分子生物学者として数々の論文を発表し、新発見をもする。その道で大いに成果をあげた、いわば、成功者なのだ。にもかかわらず、それらの研究のために「私は一体何匹のネズミたちを殺しただろう?」さらに「私の指先には、蛹から出てきたばかりの町の胸を圧した時の感触が残って」いる、というのだ。「ネズミを切り刻み、細胞をこじ開け、遺伝子を切り貼りして、世界を分けて」行った。研究はいわば世界を秩序立てることであり、剥製にラベルをつけることに等しい。彼の根本にある「センス・オブ・ワンダー」とはかけ離れたものになってしまった。そして、その違和感や疑問を梃子に本物の「ナチュラリスト」に、彼はなるのだ。
「機械論的な生命観は、生命をたわめた作り物だ。一旦はこの作り物を通らない限り、生命の細部を見極めることはできない。が、しかし、大切なことはこのロゴス的な作り物を通り抜けて、もういちどみずみずしピュシスに満ち溢れた自然に戻ること、つまり動的平衡の生命観に回帰することが学問の本質そのもののはずだ。これを持って私のナチュラリスト宣言としたい。p264」
睡眠
ここ最近,うまく眠れない。寝ついても,すぐ目が覚め,それから寝ているんだか、起きているんだか判然としない数時間を過ごし,時間になって布団を出る。
横浜へ行く途中,電車の中でわずか10分程度だが,深く落ちた。疲れているんだなぁと,改めて実感した。
川端康成『雪国』読了
文学を志して50年。
恥ずかしながら、「雪国」を今まで通読したことがありませんでした。もちろん何回か挑戦したことはあります。しかし、どうにも川端の新感覚派的手法(なんていうのかな感覚的なんですとにかく。説明なく跳ぶんです。意識の流れってやつですかね)についていけず、イクラくんが物心ついた頃にはもうノーベル賞作家であり、大先生であったにも関わらず、川端作品は読まずに(読めずに)いました。やはり太宰から入り、一応漱石を抑えてから、性に目覚めたイクラくんは三島・谷崎と深入りしていったのです。そこには川端の席はありませんでした。大学では越後湯沢出身の小堺くんだけが川端をやってました。
で、最近、「眠れる美女」の世界にハマり、ちょくちょく川端作品を手に取るようになったわけですが、若い頃はわからなかった男と女の情みたいなものが少しわかるようになってきた、というか、腑に落ちるようになってきたのです。読めるとわかる、川端の偉大さ凄さヤバさ。
冒頭部は子供の頃から知っていました。超有名な始まり。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」
完璧な始まりです。ここで黒から白へ都会から田舎へ。一気に世界を反転させる仕掛けを提示します。そして、読者をこの世界観へ導くまでの大変ナイーブな部分、具体的に言えば、座席の目の前の女性(葉子)と病人の男そして、凍えた窓ガラスに移る葉子の美しい姿とガラスの向こうの景色が交差する部分。ここの描写は本当に素晴らしい。繊細な状況を繊細なタッチで、丁寧に、でも投げやりに描く様子が目み浮かぶようです。作者もかなり苦労したのではないかな? 何度も何度も書き直したような気がします。
そして駒子との再会と、過去へ戻って出会いの場面。ここまでが世界観を読者に伝えるなかなか手ごわい場所だと言える。
その後は割と手慣れた感じで、感覚的に理屈をすっ飛ばしながら駒子の情熱と男の感動や不感症な冷めた視線・悲しみ・空虚、そして葉子への関心とラストの火事のシーンと進みます。どこまでも繊細でナーバスで男と女の機微で満載でした。
割と最初の部分で島村が左手の人差し指を突き立て、これが駒子を覚えていた、というあたりは、まあ、なんとえっちなのでしょう!と、いいおっさんのいくらくんでも頬を染めたくらいセクシーなのでした。
ああ、これから、ちょっと川端を真剣に研究しなきゃならないなあ。
これは、長い歳月と、情熱と空虚、あるいは大変な贅沢が昇華された結晶のような作品でした。
フィンガー・ピッキング・デイ
guitar師匠霜田君に誘われて,モーリス主催「フィンガー・ピッキング・デイ」に行ってきました。要はソロ・アコースティックギター・爪弾きのコンテストです。。
縛りは1人6分。二曲(アレンジ・オリジナル)。ピック使用不可(フィンガーピックはOK)。場所は馬車道赤レンガ倉庫3F会場。前日の初夏といってもいいような天気から一転、極寒の風雨の中、開催されました。春は安定せず振幅が激しい。人間も同じですね。
テープ審査・地方予選を経て20名の精鋭たち(海外勢も多数)によって火花散らす真剣勝負が繰り広げられました。
みな、本当に素晴らしい。その中でも優勝うされた坂本佳祐さんは一味違いました。上位5名くらいはほぼ同一線上、しかし、何か違うんです。紙一重でありながら歴然とした違いがある、といった感じ。矛盾しているようでそうでもない。才能とはそういった類の神の領域の問題なのでしょう。
その後、霜田くんとその一味は希望が丘の王将で懇親会をし、来る自身の発表のため三々五々帰宅したのでした。
みなさんありがとうございました。
川端康成『みずうみ』読了
なんとなく昔から本棚の端にあった。
「伊豆の踊り子」でもなく「雪国」でもなくい「山の音」でも「千羽鶴」でもなかった。川端の作品群では傍流にあたるのだろう。それをほんも気まぐれで手に取った。最後のページを繰って出た言葉は「なんじゃ、これや?」であった。
本作『みずうみ』は1954年から翌年にかけて「新潮」に連載され、単行本化された作者五十五歳時の作品である。もうこの時点ですでに川端は社会的名声を獲得している。だから実験的な(投げやり?)な本作を描くことが許されたということなのか?
視点人物は二人、あるいは柱となる人物は二人と言い換えようか。まず「桃井銀平」。彼は女子高生の教え子を、今で言うストーカー行為をし、恋愛事件を起こして教職を追われる人物。その桃井が気まぐれで跡をつけた女が「水木宮子」で、彼女は金満か老人に囲われる身であり、魔性の魅力を放ち、よく男につけられる。物語の初めは、宮子がストーカー行為をした銀平をハンドバッグで殴り逃げ出す。ハンドバッグには二十万円入っており、教職を追われ持ち金のない銀平はその金を持ち軽井沢を放浪する。軽井沢の湯屋(トルコ風呂)の女とのやり取りから話は始まる。
場面をかえ、ストーカー行為をされた宮子の視点になり、彼女と彼女を書こう七〇歳間近の老人との会話に話は移る。また、視点は銀平に戻り、教え子との変態的恋愛や幼少の頃の記憶など銀平の意識の流れのままに物語は展開する。意識の流れに忠実に話を書くと、時間軸は曖昧になり過去へ行ったり現実へ帰ったりとする。
全体を通して流れるのはデカダンスの腐った甘い香りとでも言おうか。しかし、本作は強い計画の元に書かれたものではなく、また、一貫した何か柱のようなものを持ち合わせておらず、海鼠のようにうねうねとして掴みづらい。フランス文学の影響なのか、意識の流れを中心に書けばそうなるのは必然だとしても、終わり方はあまりに唐突というか、無責任というか、悪く言えば、面倒くさくなって途中で放ってしまったような印象さえ持つ。いかがなものか?
花見ツアー
昨日(2025.3.28)花見日帰りツアーに参加した。
目黒川・六本木ヒルズ桜坂・東京ミッドタウン・靖国神社・千鳥ヶ淵・六義園・上野恩賜公園の七ヶ所。
朝7:40横浜駅東口集合だった。朝は結構な量の降雨に全身を湿らせながら38人花見ツアーの末席を汚したが,目黒川に着く頃は薄陽が差し始め,昼頃には暑いくらい人気温は上昇した。
今年初めて経験する日差しと蒸し暑さで疲れた。
最後の上野恩賜公園ではあまりの人の数にやられ,満開の桜も食傷気味であった。
4:20に上野を出発し,5:30横浜解散で本日のツアーは終了した。
もう,1日中遊び続ける気力も体力もない。疲れ切った。だが,当たり前だが,桜は見事であった。そして今桜は人を狂わせる。
エマニュエル・トッド『西洋の敗北』読了
- エマニュエル・トッドは1951年生まれ,フランスの歴史人工学者・家族人類学者である。家族システムの違いや人口動態に着目する方法により(帯)現代を分析する。本書は2023年10月までに書かれ,日本語版の一刷は2024.11.10である。
タイトルはなにやら物騒で耳目を引くキャッチーなものである。ウクライナ戦争は3年を過ぎ,トランプが被害当事国のか頭越しにプーチンと戦争終結を画策しているのが、まさにこの文章を書いている現在(2025.3.26)のリアルな状況である。
まず確認。我々日本は西側諸国の一員といたカウントされていることの認識の上本書を読み進めていく。トッドは,人口・出生率・乳児死亡率・自殺率・平均年齢などのデータを分析しつつ,各国の現状を分析しつつ,歴史的地理的問題を絡めながら論考を進める。
まず,最初に明記した通り,西側に属する日本は西側からの視線で世界を見ている。そうような情報で,ロシア=悪という図式を刷り込まれている。トッドは前述の方法を駆使し、ロシアの現在・ウクライナのあり方・東欧・欧州の今・特に現在の英国・北欧の関係・米国・そしてウクライナ戦争を分析する。
まず,ロシアだが,自殺率も乳児死亡率もここ数年で大きく改善され欧米,特にアメリカなどと比べとても安定している。さらにソ連解体時がどん底だった経済はプーチン以後改善され好調に推移している。また,小麦の生産量も20年前と比べ倍増している。さらに,エネルギーは完全に自国で賄うことができる。それに比べ西側諸国は宗教的にも経済的にも内側から朽ちており,トッドの言葉では「国家ゼロ」の状態になっているか(英国),それに突き進んでいる。
我々が耳にする情報では,西洋とロシアを比べれば西洋が経済的に圧倒し,不埒な悪が無慈悲にウクライナで人を殺している,だから西側諸国が一体となり,悪のプーチンのか我儘を押さえ込まなければならない。こんなところではないだろうか?
GDPなどの指標にはロシアは顔を出さない。だから極貧なのでは?アメリカは新自由主義の推進により頻繁さは拡大しているものの,依然GDPトップの豊かな国である。果たしてGDPなるものは世界の本当なあり方を示すモノサシとして機能しているのか?どこかに現状を覆い隠してしまうカラクリがあるのではないか?
いずれの民主国家でも同様であるが,中間層の厚さがその国の安定度や民度・暮らしやすさなどを考える上で大切な指標である。この点から言うと,アメリカはほぼなにも生み出していない。ラストベルトの白人が象徴するように国家を支えてきた産業は壊滅し中間層はもはや存在しない。そこにあるのは1%の大金持ちと99%の貧乏人だ。彼らはロクな教育も受けられず,生活の背骨として機能してきたプロテスダンディズムもゼロ状態になり,麻薬や銃に翻弄されている。
デフォルメされた表現ではあるが間違ってはいない。それに比べ視点を変えればロシアの方が生活は安定しており社会倫理観は保持され民度が高い。
ではなぜ,ロシアはウクライナを攻撃するか?トッドによればロシアは西側遠攻撃し領土を拡大しようなどとは考えていない。それは人口・経済などから判断しても明確な事実である。ただ北欧もアメリカの衛星国として機能する今,独立性を高め西側に擦り寄るウクライナのあり方は脅威であり,NATOに入るなどはもってのほかである。
さらに,我々は西側の論理で世界をみているが,西側がここ数百年でアジア・アフリカにしてきたことは大変遺憾なことであり,西側以外のほぼ全ての国は内心でロシアの側にいる。中国もインドも中東もアフリカも。人口比で言えば向こうが上回るののは明らかである。
文明高く正義の欧米がロシア・中国の敵を倒し,多くの貧しい国々に産業と民主主義を覚えてもらい,幸福な社会を作りましょう。みたいな世界観を純粋に信じる人間は西側にですらたった1人も存在しないであろう。欧米は自国の利益のために世界にしてきたことの非道さは明確であろう。
中国がインドが中東がアフリカが,西側を忌み嫌うのはある意味至極当然のことであろう。裸の王様が自身の醜悪さに目覚め始めている。
こういう視点はどうだろう?トランプ・マクロンとプーチン・習近平と比較し,どちら側が優れているか?ものさし一つで皆の見え方は変わる。
白蟻(行き過ぎた民度)により内側から朽ちて崩壊寸前であることが明白になってきた。
最後に,本書はフランス語で書かれた日本語にも翻訳されているが,未だ英語版は出されていないそうだ。ある意味病理の深さと,怯えが垣間見られる現実だとはいえまいか?
大阪ツアー
3/16〜17と,一泊二日で大阪に行ってきました。相棒は師匠トーイちゃん。
朝7時秦野中井ICから雨中出発も,イカレタおじさんたちには何ら影響なし。最近の定番は,2時間走って浜松SA天神屋で「しぞーかおでん」をいただくこと。好きな具材をさらに盛り付けレジで精算。店内で熱々にかぶりつくのが至福の時間です。
気を取り直して,名古屋・京都を超え一気に大阪へ突入。師匠トーイちゃんはご子息が立命館だった関係で京都は大の得意。しかし,よもやそこまで。大阪はからっきしダメと来てる。ナビとGoogleマップを駆使して付近を2周してからようやく,本日お世話になる「大東洋」の提携駐車場へイン。24時間最大で1500円というから,梅田そばにしてはリーズナブル。
しとしと雨を避けアーケード散策中に見つけた寿司屋に飛び込む。ランチ1000円美味かった!
地下鉄御堂筋線梅田駅から心斎橋へ。アーケードの途中に,ありましたありました,今ツアーのメインサウナ「DESSE」です。サウナシャラン高位にランクインしている最近開業のサウナです。ビルの4回ワンフロアーすべてが温浴施設。内容は今風の若者向きサウナ。品川サウナや,赤坂ザ・サウナと同じような,洗練された感じの今風施設でした。限られた空間に7つもの様々なサウナがあり,すべて網羅せねばという使命感でなんだか落ち着かない。初陣だしこんなものか。
3時半に卒湯し,またまた御堂筋線で今度は天王寺で下車。阿倍野を通過し(ノーパン喫茶発祥の地とも言われる「阿倍野スキャンダル」という単語は脳髄に深く掘り込まねているため少々感慨に耽る),高層マンション群を横切ると,そこは全くの別世界「飛田新地」にぶち当たります。その地の詳細は割愛。興味ある殿方は調べて見てください。令和の日本とは思えない光景が待っています。いくら君は緊張で足早になるところ,トーイちゃんは余裕で手を振ったりしてる。アニョハセヨなんて言いながら。全くもう。
阪神高速14号松原線の高架をくぐり右折し,飛田本通り商店街のアーケードを歩く。圧の強いとても一見さんには入れない空気の街を抜け,大和路線高架をくぐると安心のジャンジャン横丁へ。ここは日常の延長にある大阪の下町です。
大阪へ来たなら串カツでしょ,ということで,「八重勝」へ入店。串カツ屋なら付近たくさんあるのだが,なぜかここだけ大繁殖している。20分ほど並んでようやく入店。目の前で店員さんが次から次へとオーダーが入ったものを油の鍋に放り込んでいる。串カツ・どて焼き・牡蠣串・卵等々が熱々の衣に包まれ目の前に並ぶ。テンション爆上がりでんがな。当然,ソースは2度付け禁止でっせ! 7本いただき,ご馳走様。美味かった!まいど!
新世界から通天閣に昇りビリケンさんに挨拶。夜の新世界から西成地区は異様なオーラを放っているのでした。
動物園駅から梅田,そして本日のお宿でもあるサウナ&スパ大東洋へ。トーイちゃんは遅くまでお風呂にはいっていたようですが,いくら君はそのまま就寝。お風呂は朝遠井割り切る。
翌日17日,8時発。一気に高速道路を直走り,13時に「サウナしきじ」に到着。こちらは大昔からの老舗サウナ。安定感と水は東洋一やで。」
帰り,富士川SAで富士宮焼きそばをいただき帰路へ。
二日間の走行距離は900km。お疲れ様でした。
プラトン『国家』読了
2025.2.28~3.12 上下巻。1000頁。約2週間。長かった😮💨
アメリカの大学生が「読むべき本ベストテン」みたいな記事の筆頭が、プラトン「国家」だった。(ちなみ、にダーウィン「種の起源」、カント「純粋理性批判」等の名も上がっていた)。そこで昔からプラトンには興味があり、今回思い切って読んでみることにした。
まず、本書はギリシャ哲学の、いや哲学の起源といっても過言ではない。内容・質量から言っても圧巻である。書かれたのはBC370年頃。プラトン50ー60歳頃とされる。表現形態としては、当時の定番である対話編である。ここではプラトンの師匠ソクラテスがポレマルコス・トラシュマコス・グラウコンたちとの対話から様々な哲学的論考を深めていく、という形式になっている。
ここで扱われている哲学的テーマは如何なるものか? それは・・・。誤解を恐れずに言おう。ありとあらゆることである、と。『国家』というタイトルからもわかるように、「理想国家」について語られるわけだが、そのベースになるのは「正義ー不正義」、「善ー不善」といった人間の魂のあり方が根本問題として随所に手を替え品を替え散りばめられる。そこから「初等教育論」「中等教育論」「家族の在り方」「国家の守護者(政治家)の在り方」「哲学者」「音楽・文藝・体育教育論」等々、人が社会で生きていく上で考えなければならないありとあらゆる問題が取り上げられ、それについてソクラテスの見解が語られる。現代においては違和感を感じる点や、ナチスや全体主義者たちが利用したことにより、本書が毀誉褒貶の波に揉まれた経緯もあるようだが、現代においても、あるいは人間が持ち続ける課題としての問題が網羅的に提示され、示唆に及ぶ点多数極まりない。
当然だが一読して全てがわかるようなものではない。何度も繰り返し読む必要がある本であるし、またその価値もある名著であると思われる。