川端康成『雪国』読了
文学を志して50年。
恥ずかしながら、「雪国」を今まで通読したことがありませんでした。もちろん何回か挑戦したことはあります。しかし、どうにも川端の新感覚派的手法(なんていうのかな感覚的なんですとにかく。説明なく跳ぶんです。意識の流れってやつですかね)についていけず、イクラくんが物心ついた頃にはもうノーベル賞作家であり、大先生であったにも関わらず、川端作品は読まずに(読めずに)いました。やはり太宰から入り、一応漱石を抑えてから、性に目覚めたイクラくんは三島・谷崎と深入りしていったのです。そこには川端の席はありませんでした。大学では越後湯沢出身の小堺くんだけが川端をやってました。
で、最近、「眠れる美女」の世界にハマり、ちょくちょく川端作品を手に取るようになったわけですが、若い頃はわからなかった男と女の情みたいなものが少しわかるようになってきた、というか、腑に落ちるようになってきたのです。読めるとわかる、川端の偉大さ凄さヤバさ。
冒頭部は子供の頃から知っていました。超有名な始まり。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」
完璧な始まりです。ここで黒から白へ都会から田舎へ。一気に世界を反転させる仕掛けを提示します。そして、読者をこの世界観へ導くまでの大変ナイーブな部分、具体的に言えば、座席の目の前の女性(葉子)と病人の男そして、凍えた窓ガラスに移る葉子の美しい姿とガラスの向こうの景色が交差する部分。ここの描写は本当に素晴らしい。繊細な状況を繊細なタッチで、丁寧に、でも投げやりに描く様子が目み浮かぶようです。作者もかなり苦労したのではないかな? 何度も何度も書き直したような気がします。
そして駒子との再会と、過去へ戻って出会いの場面。ここまでが世界観を読者に伝えるなかなか手ごわい場所だと言える。
その後は割と手慣れた感じで、感覚的に理屈をすっ飛ばしながら駒子の情熱と男の感動や不感症な冷めた視線・悲しみ・空虚、そして葉子への関心とラストの火事のシーンと進みます。どこまでも繊細でナーバスで男と女の機微で満載でした。
割と最初の部分で島村が左手の人差し指を突き立て、これが駒子を覚えていた、というあたりは、まあ、なんとえっちなのでしょう!と、いいおっさんのいくらくんでも頬を染めたくらいセクシーなのでした。
ああ、これから、ちょっと川端を真剣に研究しなきゃならないなあ。
これは、長い歳月と、情熱と空虚、あるいは大変な贅沢が昇華された結晶のような作品でした。
フィンガー・ピッキング・デイ
guitar師匠霜田君に誘われて,モーリス主催「フィンガー・ピッキング・デイ」に行ってきました。要はソロ・アコースティックギター・爪弾きのコンテストです。。
縛りは1人6分。二曲(アレンジ・オリジナル)。ピック使用不可(フィンガーピックはOK)。場所は馬車道赤レンガ倉庫3F会場。前日の初夏といってもいいような天気から一転、極寒の風雨の中、開催されました。春は安定せず振幅が激しい。人間も同じですね。
テープ審査・地方予選を経て20名の精鋭たち(海外勢も多数)によって火花散らす真剣勝負が繰り広げられました。
みな、本当に素晴らしい。その中でも優勝うされた坂本佳祐さんは一味違いました。上位5名くらいはほぼ同一線上、しかし、何か違うんです。紙一重でありながら歴然とした違いがある、といった感じ。矛盾しているようでそうでもない。才能とはそういった類の神の領域の問題なのでしょう。
その後、霜田くんとその一味は希望が丘の王将で懇親会をし、来る自身の発表のため三々五々帰宅したのでした。
みなさんありがとうございました。
川端康成『みずうみ』読了
なんとなく昔から本棚の端にあった。
「伊豆の踊り子」でもなく「雪国」でもなくい「山の音」でも「千羽鶴」でもなかった。川端の作品群では傍流にあたるのだろう。それをほんも気まぐれで手に取った。最後のページを繰って出た言葉は「なんじゃ、これや?」であった。
本作『みずうみ』は1954年から翌年にかけて「新潮」に連載され、単行本化された作者五十五歳時の作品である。もうこの時点ですでに川端は社会的名声を獲得している。だから実験的な(投げやり?)な本作を描くことが許されたということなのか?
視点人物は二人、あるいは柱となる人物は二人と言い換えようか。まず「桃井銀平」。彼は女子高生の教え子を、今で言うストーカー行為をし、恋愛事件を起こして教職を追われる人物。その桃井が気まぐれで跡をつけた女が「水木宮子」で、彼女は金満か老人に囲われる身であり、魔性の魅力を放ち、よく男につけられる。物語の初めは、宮子がストーカー行為をした銀平をハンドバッグで殴り逃げ出す。ハンドバッグには二十万円入っており、教職を追われ持ち金のない銀平はその金を持ち軽井沢を放浪する。軽井沢の湯屋(トルコ風呂)の女とのやり取りから話は始まる。
場面をかえ、ストーカー行為をされた宮子の視点になり、彼女と彼女を書こう七〇歳間近の老人との会話に話は移る。また、視点は銀平に戻り、教え子との変態的恋愛や幼少の頃の記憶など銀平の意識の流れのままに物語は展開する。意識の流れに忠実に話を書くと、時間軸は曖昧になり過去へ行ったり現実へ帰ったりとする。
全体を通して流れるのはデカダンスの腐った甘い香りとでも言おうか。しかし、本作は強い計画の元に書かれたものではなく、また、一貫した何か柱のようなものを持ち合わせておらず、海鼠のようにうねうねとして掴みづらい。フランス文学の影響なのか、意識の流れを中心に書けばそうなるのは必然だとしても、終わり方はあまりに唐突というか、無責任というか、悪く言えば、面倒くさくなって途中で放ってしまったような印象さえ持つ。いかがなものか?
花見ツアー
昨日(2025.3.28)花見日帰りツアーに参加した。
目黒川・六本木ヒルズ桜坂・東京ミッドタウン・靖国神社・千鳥ヶ淵・六義園・上野恩賜公園の七ヶ所。
朝7:40横浜駅東口集合だった。朝は結構な量の降雨に全身を湿らせながら38人花見ツアーの末席を汚したが,目黒川に着く頃は薄陽が差し始め,昼頃には暑いくらい人気温は上昇した。
今年初めて経験する日差しと蒸し暑さで疲れた。
最後の上野恩賜公園ではあまりの人の数にやられ,満開の桜も食傷気味であった。
4:20に上野を出発し,5:30横浜解散で本日のツアーは終了した。
もう,1日中遊び続ける気力も体力もない。疲れ切った。だが,当たり前だが,桜は見事であった。そして今桜は人を狂わせる。
エマニュエル・トッド『西洋の敗北』読了
- エマニュエル・トッドは1951年生まれ,フランスの歴史人工学者・家族人類学者である。家族システムの違いや人口動態に着目する方法により(帯)現代を分析する。本書は2023年10月までに書かれ,日本語版の一刷は2024.11.10である。
タイトルはなにやら物騒で耳目を引くキャッチーなものである。ウクライナ戦争は3年を過ぎ,トランプが被害当事国のか頭越しにプーチンと戦争終結を画策しているのが、まさにこの文章を書いている現在(2025.3.26)のリアルな状況である。
まず確認。我々日本は西側諸国の一員といたカウントされていることの認識の上本書を読み進めていく。トッドは,人口・出生率・乳児死亡率・自殺率・平均年齢などのデータを分析しつつ,各国の現状を分析しつつ,歴史的地理的問題を絡めながら論考を進める。
まず,最初に明記した通り,西側に属する日本は西側からの視線で世界を見ている。そうような情報で,ロシア=悪という図式を刷り込まれている。トッドは前述の方法を駆使し、ロシアの現在・ウクライナのあり方・東欧・欧州の今・特に現在の英国・北欧の関係・米国・そしてウクライナ戦争を分析する。
まず,ロシアだが,自殺率も乳児死亡率もここ数年で大きく改善され欧米,特にアメリカなどと比べとても安定している。さらにソ連解体時がどん底だった経済はプーチン以後改善され好調に推移している。また,小麦の生産量も20年前と比べ倍増している。さらに,エネルギーは完全に自国で賄うことができる。それに比べ西側諸国は宗教的にも経済的にも内側から朽ちており,トッドの言葉では「国家ゼロ」の状態になっているか(英国),それに突き進んでいる。
我々が耳にする情報では,西洋とロシアを比べれば西洋が経済的に圧倒し,不埒な悪が無慈悲にウクライナで人を殺している,だから西側諸国が一体となり,悪のプーチンのか我儘を押さえ込まなければならない。こんなところではないだろうか?
GDPなどの指標にはロシアは顔を出さない。だから極貧なのでは?アメリカは新自由主義の推進により頻繁さは拡大しているものの,依然GDPトップの豊かな国である。果たしてGDPなるものは世界の本当なあり方を示すモノサシとして機能しているのか?どこかに現状を覆い隠してしまうカラクリがあるのではないか?
いずれの民主国家でも同様であるが,中間層の厚さがその国の安定度や民度・暮らしやすさなどを考える上で大切な指標である。この点から言うと,アメリカはほぼなにも生み出していない。ラストベルトの白人が象徴するように国家を支えてきた産業は壊滅し中間層はもはや存在しない。そこにあるのは1%の大金持ちと99%の貧乏人だ。彼らはロクな教育も受けられず,生活の背骨として機能してきたプロテスダンディズムもゼロ状態になり,麻薬や銃に翻弄されている。
デフォルメされた表現ではあるが間違ってはいない。それに比べ視点を変えればロシアの方が生活は安定しており社会倫理観は保持され民度が高い。
ではなぜ,ロシアはウクライナを攻撃するか?トッドによればロシアは西側遠攻撃し領土を拡大しようなどとは考えていない。それは人口・経済などから判断しても明確な事実である。ただ北欧もアメリカの衛星国として機能する今,独立性を高め西側に擦り寄るウクライナのあり方は脅威であり,NATOに入るなどはもってのほかである。
さらに,我々は西側の論理で世界をみているが,西側がここ数百年でアジア・アフリカにしてきたことは大変遺憾なことであり,西側以外のほぼ全ての国は内心でロシアの側にいる。中国もインドも中東もアフリカも。人口比で言えば向こうが上回るののは明らかである。
文明高く正義の欧米がロシア・中国の敵を倒し,多くの貧しい国々に産業と民主主義を覚えてもらい,幸福な社会を作りましょう。みたいな世界観を純粋に信じる人間は西側にですらたった1人も存在しないであろう。欧米は自国の利益のために世界にしてきたことの非道さは明確であろう。
中国がインドが中東がアフリカが,西側を忌み嫌うのはある意味至極当然のことであろう。裸の王様が自身の醜悪さに目覚め始めている。
こういう視点はどうだろう?トランプ・マクロンとプーチン・習近平と比較し,どちら側が優れているか?ものさし一つで皆の見え方は変わる。
白蟻(行き過ぎた民度)により内側から朽ちて崩壊寸前であることが明白になってきた。
最後に,本書はフランス語で書かれた日本語にも翻訳されているが,未だ英語版は出されていないそうだ。ある意味病理の深さと,怯えが垣間見られる現実だとはいえまいか?
大阪ツアー
3/16〜17と,一泊二日で大阪に行ってきました。相棒は師匠トーイちゃん。
朝7時秦野中井ICから雨中出発も,イカレタおじさんたちには何ら影響なし。最近の定番は,2時間走って浜松SA天神屋で「しぞーかおでん」をいただくこと。好きな具材をさらに盛り付けレジで精算。店内で熱々にかぶりつくのが至福の時間です。
気を取り直して,名古屋・京都を超え一気に大阪へ突入。師匠トーイちゃんはご子息が立命館だった関係で京都は大の得意。しかし,よもやそこまで。大阪はからっきしダメと来てる。ナビとGoogleマップを駆使して付近を2周してからようやく,本日お世話になる「大東洋」の提携駐車場へイン。24時間最大で1500円というから,梅田そばにしてはリーズナブル。
しとしと雨を避けアーケード散策中に見つけた寿司屋に飛び込む。ランチ1000円美味かった!
地下鉄御堂筋線梅田駅から心斎橋へ。アーケードの途中に,ありましたありました,今ツアーのメインサウナ「DESSE」です。サウナシャラン高位にランクインしている最近開業のサウナです。ビルの4回ワンフロアーすべてが温浴施設。内容は今風の若者向きサウナ。品川サウナや,赤坂ザ・サウナと同じような,洗練された感じの今風施設でした。限られた空間に7つもの様々なサウナがあり,すべて網羅せねばという使命感でなんだか落ち着かない。初陣だしこんなものか。
3時半に卒湯し,またまた御堂筋線で今度は天王寺で下車。阿倍野を通過し(ノーパン喫茶発祥の地とも言われる「阿倍野スキャンダル」という単語は脳髄に深く掘り込まねているため少々感慨に耽る),高層マンション群を横切ると,そこは全くの別世界「飛田新地」にぶち当たります。その地の詳細は割愛。興味ある殿方は調べて見てください。令和の日本とは思えない光景が待っています。いくら君は緊張で足早になるところ,トーイちゃんは余裕で手を振ったりしてる。アニョハセヨなんて言いながら。全くもう。
阪神高速14号松原線の高架をくぐり右折し,飛田本通り商店街のアーケードを歩く。圧の強いとても一見さんには入れない空気の街を抜け,大和路線高架をくぐると安心のジャンジャン横丁へ。ここは日常の延長にある大阪の下町です。
大阪へ来たなら串カツでしょ,ということで,「八重勝」へ入店。串カツ屋なら付近たくさんあるのだが,なぜかここだけ大繁殖している。20分ほど並んでようやく入店。目の前で店員さんが次から次へとオーダーが入ったものを油の鍋に放り込んでいる。串カツ・どて焼き・牡蠣串・卵等々が熱々の衣に包まれ目の前に並ぶ。テンション爆上がりでんがな。当然,ソースは2度付け禁止でっせ! 7本いただき,ご馳走様。美味かった!まいど!
新世界から通天閣に昇りビリケンさんに挨拶。夜の新世界から西成地区は異様なオーラを放っているのでした。
動物園駅から梅田,そして本日のお宿でもあるサウナ&スパ大東洋へ。トーイちゃんは遅くまでお風呂にはいっていたようですが,いくら君はそのまま就寝。お風呂は朝遠井割り切る。
翌日17日,8時発。一気に高速道路を直走り,13時に「サウナしきじ」に到着。こちらは大昔からの老舗サウナ。安定感と水は東洋一やで。」
帰り,富士川SAで富士宮焼きそばをいただき帰路へ。
二日間の走行距離は900km。お疲れ様でした。
プラトン『国家』読了
2025.2.28~3.12 上下巻。1000頁。約2週間。長かった😮💨
アメリカの大学生が「読むべき本ベストテン」みたいな記事の筆頭が、プラトン「国家」だった。(ちなみ、にダーウィン「種の起源」、カント「純粋理性批判」等の名も上がっていた)。そこで昔からプラトンには興味があり、今回思い切って読んでみることにした。
まず、本書はギリシャ哲学の、いや哲学の起源といっても過言ではない。内容・質量から言っても圧巻である。書かれたのはBC370年頃。プラトン50ー60歳頃とされる。表現形態としては、当時の定番である対話編である。ここではプラトンの師匠ソクラテスがポレマルコス・トラシュマコス・グラウコンたちとの対話から様々な哲学的論考を深めていく、という形式になっている。
ここで扱われている哲学的テーマは如何なるものか? それは・・・。誤解を恐れずに言おう。ありとあらゆることである、と。『国家』というタイトルからもわかるように、「理想国家」について語られるわけだが、そのベースになるのは「正義ー不正義」、「善ー不善」といった人間の魂のあり方が根本問題として随所に手を替え品を替え散りばめられる。そこから「初等教育論」「中等教育論」「家族の在り方」「国家の守護者(政治家)の在り方」「哲学者」「音楽・文藝・体育教育論」等々、人が社会で生きていく上で考えなければならないありとあらゆる問題が取り上げられ、それについてソクラテスの見解が語られる。現代においては違和感を感じる点や、ナチスや全体主義者たちが利用したことにより、本書が毀誉褒貶の波に揉まれた経緯もあるようだが、現代においても、あるいは人間が持ち続ける課題としての問題が網羅的に提示され、示唆に及ぶ点多数極まりない。
当然だが一読して全てがわかるようなものではない。何度も繰り返し読む必要がある本であるし、またその価値もある名著であると思われる。
ミニトマト等播種及び発芽
2月14日に夏野菜(ミニトマト・中玉トマト・大玉トマト・ナス・ピーマン)の種たちを放卵し始めました。湿らしたキッチンペーパーに種を置き、ビニール袋に入れ24時間肌身離さずに人肌で温めることです。彼らの発芽温度は25度〜30度とあります。放卵している状態でだいたい25度くらいを示していました。結果、五日でポットに巻き直しました(播種日は19日)。その後トマト類は二日で発芽しましたが、ナス・ピーマンはいまだ反応がありません。ナスの方がより高温をこと無とともに時間がかかるようです。もしかしたらしっぱしたのかもしれませんが。
ニーチェ『道徳の系譜』読了
前回の『善悪の彼岸』に引き続きニーチェ『道徳の系譜』(1887)である。ニーチェの大著『ツァラツストラかく語りき』はあまりに文学的なため,ニーチェの思想が誤って伝わるという心配から彼は『善悪の彼岸』を書いたが,それも箴言が多く一般に理解されない心配があり,それを補佐するために本書は書かれたという。
いわば,彼の中期の思想をもっもとわかりやすい散文で書いたものである。
第一論文はいわゆる「善悪」という従来の道徳的価値判断の起源を暴き出すことが中心問題であって,この勿体らしい判断方式の正体は,キリスト教的な奴隷人間の恨みっぽく悪賢い「ルサンチマン」の精神から生まれた奇形児で,その本質から言えば,古代的な貴族人間に対する一つの反抗運動であり,貴族的価値判断の支配に対する大規模な暴動に他ならない。(解説より)
第二論文は「良心の心理学」を提示する。良心とは「内なる神の声」などではない。「良心」の創始者は却って,外に向かって放出することがもはやできなくなった後,逆転して内に向かう「残忍性の本能」である。(解説より)
第三論文は「禁欲者の心理学」である。「禁欲主義的理想」(僧職的理想)の巨魁な力はどこに由来するか。「禁欲主義的理想は何にもまして「有害な理想」である。(解説より)
我々の内面に巣食う,自己呵責の由来を明らかにして,2000年間我々人間を苦しめていたものからの解放をたからかに歌い上げる。これがニーチェのやりたかったことなのだろう。
それがある時は壮大な詩的言語によって,あるいは散りばめられた箴言によって,そして本書のように散文によって。彼によればプラトンもカントもけっちよんけっちょんだ。とにかく,現在のベースとなった常識をぶち壊す。
いずれにせよ,頑丈な鎖に縛り付けられた当時の人々(それは2020年台の現代においても同様である)の心をこじ開けることは難しかったであろう。彼の理解者は少なく,貶めようとする勢力にたいそう辛い思いをしたに違いない。
「人間は何らかの仕方で,少なくとも心理的には,さながら檻の中に閉じ込められた動物か何かのように,理由も目的もわからずに,自己自身によって苦しめられている」(第三論文20)
「より善くする」とは「飼い慣らす」とか,「弱くする」とか,「沮喪させる」とか,「柔弱にする」とか,「去勢する」というほどの意味だ。(第三論文21)
全くもって共感する。その通りだ。この世は巨悪に塗れて,我々は内面から苦しんでいる。圧政によって苦しめられているのではない。自らの心に「善」とか「道徳」といった形で,苦しみの根源が埋め込められている。いわばOSに組み込まれているのだ。だからシステムを再構築しなければならない。
でもね。それはたいそう疲れることであろう。大風に向かって歩き続けることなのだから。彼は「強くあれ!」と我々を煽る。畜群と言って罵り,我々のうちならプライドを刺激しょうとする。
でもやはり,耳を塞いで下を向き,畜群として生きていかざるを得ないのだろうな。強くないから。悲しい? 老人だから?
門井慶喜『信長,鉄砲で君臨する』読了
珍しく、時代物のエンタメ。
現在、朝日新聞にて、北村透谷の奥様を主人公にした小説「夫を亡くして」を連載中の門井慶喜氏であるが、いくら君は毎日楽しく拝読している。門井氏の作品は過去に二篇読んでいた。『家康、江戸を作る』と『銀河鉄道の父』(直木賞)出る。家康を読み出した最初、少し驚いた。そしてちょびっとバカにしながら読んだ。改行の多さ、描写の淡白さ、そして内言の表現方法。こりゃ、なんだよね、読みやすいけれど、相当薄っぺらいね。って感じ。でも違った。少ない言葉の中に万巻の意味が込められている。その一言を選ぶために大変な時間的集積が必要であったはずだ。読み進めながら、小説世界に引き込まれ、門井氏の構成の妙、描写の端的さ、そして取材力の高さに完全に圧倒された。「家康で直木賞を落とした時、おや?と思ったものだ。まあ、次回作「賢治」でとったわけだが、いくら君個人としては、家康の方が面白かった。」
さて、今回は信長である。が、さすが門井氏、視点が他の作家とは違う。
鉄砲伝来から改造、量産、効率的利用、時代を変えた力、を軸に物語は展開する。信長の天下取りストーリーの柱ではない。
鉄砲伝来を中心に据えた種子島氏の物語(第1章 鉄砲が伝わる)、
根来寺での量産と若き信長の物語(第2章 鉄砲で殺す)、
火薬の材料硝石を抑えた大阪商人の物語(第3章 鉄砲で儲ける)、
鉄砲で世を落とす信長と安土城の天守にまつわる物語(第4章 鉄砲で建てる)、
時代の先端から脱落した信長の最期(第5章 鉄砲で死ぬ)
という構成である。
鉄砲伝来、普及、利用から、戦い方が変わるとともに、考え方も変わる。武士が名乗りを上げ「我こそは〜」などとやってから一騎打ちをする戦いから、武士ではない無名の足軽が鉄砲兵として、誰が誰を殺したかわからない形で戦争が進む、といういわば近代戦への移行。これこそが信長が行ったことであった。近代の始まり、である。それは個人が個人としての尊厳を失い、一つの部品になっていく過程といってもいいだろう。第4章で安土城天守建設における「鶴治」たち職人の反乱はまさに、権威あるものから庶民の時代への移行を示すとともに、「名誉ある死」から「十把一絡げの死」へ移行する示唆であった。
さっぱりしていて、ぐんぐん読める。ページをくる手が止まらない。それでいて、発見があり、最後は大いに唸らさられる。素晴らしい小説である。
いくら君は、十代の頃より純文学こそ価値のあるもので、いわゆる大衆文学は方法的探究を目指さない、単なる慰めの二流物という認識でいる。いまだにその病から抜き出せてはいない。純文学が上、大衆文学は下。でも、最新の芥川賞受賞作を読み進めることができなかった。その作品は若さに反して衒学趣味を散らばせたゲーテの話であるのだが、どうにもいくら君には文体がダメだという認識に支配され読み進めることが時間の無駄のような気がして放ってしまった。それは老人いくら君の若さへの嫉妬なのかもしれない。あるいは時代遅れの老人が流行りに乗れないだけの話なのかもしれない。
でも、と、思うのである。
いい小説という括りで読みば、選べば、純文学・大衆文学などというジャンル分けは意味をなさないのではないか。そんな区分けこそがペダンティックでエリート主義的な、まさに我らが唾棄するべき物なのではないか。と。
読み手としての力を磨くことも大切であることを痛感した。
とにかく面白かった。