高橋源一郎『「書く」ってどんなこと?』読了
作家であるタカハシさんはもう40年以上毎日文章を書いている。
まず彼はいう。「すべての文章は「わたし」が書いている」、ということを。「かけがえのないたったひとりの「わたし」が」が書いているということ。
そして「考えずに」書く、という指摘。
夏目漱石の「坊っちゃん」という小説は、原稿用紙250枚くらいの作品である。そして漱石はそれを8日から10日で書き上げた。つまり毎日25枚以上。当然手書きである。そしてその原稿はほとんど訂正した跡がないものだという。つまり何が言いたいか。考えながら書いている時間などない。つまり、「考えず」に書いている、と。
さらにタカハシさんは自分のデビュー作になる作品(『さようならギャングたち』)を書いた経緯を教えてくれる。新人賞の最終選考で落とされたタカハシさんは、編集者から500枚の長編小説を書いてみないかと勧められる。しかし、時間は2ヶ月しかない。それでも、彼は始める。まだワープロもない時代である。当然手書き。それを。何者かに取り憑かれたように書いて書いて、1ヶ月で500枚を描き、残りの時間で清書する。ほとんど直すことがなかったそうだ。つまり考えながら書く時間などなかったはずだと。ではその時タカハシさんの中で何が起こっていたのか?
「わたしの中に、「書かれたい何か」、「外に出てみたい何か」がありました。だから何かを新しく作り出す必要はありませんでした。その「なにか」を「外」に出してあげればいい」ということらしい。そして彼は何も考えず一行目を書く。すると一気に一息にするすると言葉が溢れ出し、それをただキャッチして紙に書き付ける人になった、ということらしいのです。彼はいう。「おそらく、このとき、わたしは、生まれて初めて、「書く」ことと接触することに成功したのだと思います」と。
「わたし」の中には「二人のわたし」がいる。「昼間のわたし」つまり「仮面のわたし」。何十年も社会の言葉を吸収した「社会」の検閲を受けたコトバにしか出会えないわたし。「しかし、どうやら、わたしの中には「昼間のわたし」の他に、もうひとりの「わたし」が住んでいるようなのです。ふだんは姿を現さない、夢の中の存在のように淡い、もうひとりの「わたし」です。それを「夜のわたし」と呼ぶことにしましょう。あるいは「ほんとうのわたし」と055頁。つまり社会の検閲を受けていない「コトバ」を生み出すことのできる「わたし」の存在が、ものを書かせている。
「手」が勝手にキイボードを叩いている。いや、「わたし」をすっ飛ばして、「脳」が直接、ディスプレイに「コトバ」を送りこんでいる。「わたし」はただ、それを眺めているだけ。そんな感じです。」063頁
こんなに楽しい時間はないだろう。いわゆる、ゾーンに入ったというやつか。2024年9月における大谷くんのような感じだろうか。そのとき大谷くんは「今の打席」にすべての集中を向けられる状態にあったのだと思う。「ああ、今ホームランは何本だから、ここでこうすると、記録だなあ。とかここで盗塁すると、新記録だなあ。」なんてことはおそらく全く考えていない。ただただ、「今こん打席で自分にとってのいいバッティングをする」ということだけに集中している。
いくら君も、昨年の秋に書いた「リスト」の中でそうのような経験をした。もう描きながら、あたらしアイディアが次々に浮かび、楽しくて仕方がない。アドレナリンドバドバ、みたいな感じ。(まあ、いくら君のその作品は仲間内でボロボロにされ、新人賞に応募するも一次選考すら通らなかったのですが)
社会の検閲を受けない、「もうひとりのわたし」の言葉で書く。難しいことではあるが、「コトバ」に対しての、あるいは「書く」ということに対しての新しい所見を示され、盲を開かれた感がある。いや、さすが高橋源一郎!離婚四回、結婚五回の男は、飄々をしているようで、実は実にエネルギッシュでもあるのですね。いい本でした。
今井むつみ・秋田喜美『言語の本質』読了
まず、一言。
本書は大変な名著である。
オノマトペ研究から始まり二人の研究者は、誇大妄想的に(失礼)論を深め「言語の本質」にまで考察を進める。
今井は発達心理学の立場から、秋田は言語学の立場から、二人の研究は進む。
言語学では扱いの低い「オノマトペ」研究が旅の始まりである。もふもふ、カリカリ、ツルツル、などのオノマトペは直感的にある感覚を我々に与える。当然、言語取得初心者である子供が最初多用するあの「オノマトペ」である。オノマトペは言語以上に言語的である。例えばモフモフ。この語自体は全く意味がない。にも関わらず、柔らかい・手触りが優しい・などの感覚を我々に想起させる。難しい認識がなされない子供でも直感的に「わかる」。母語が日本語でない人に理解されるという。つまりある種の「アイコン性」を備えているのだ。
子供が最初に理解し使用するオノマトペだが、彼らはいったいどうやって、複雑なシステムである言語を獲得していくのだろうか? ただ、単語の意味を覚えるだけではない。その動作はあまりに膨大である(AIにはできても人間にはできない)。しかし人間には、AIにはできない、敷衍していく能力〈推論〉がある。子供は「りんご」を、見・触・食などの行動から得られた認識と言語を紐付け言語を獲得していく。つまり「人間は、記号が身体、あるいは自分の経験に接地できて」初めて学習できる(記号接地)のだ。そして「すべての単語、すべての概念が身体に接地していなくても、最初の端緒となる知識が接地されていれば、その知識を雪だるま式に増やしていくことができる。一旦学習が始まると、最初はちっぽけだった知識が新たな知識を海、どんどん成長していくことができる(ブートスタラッピングサイクル=靴(ブーツ)の履き口にあるつまみ(ストラップ)を自分の指で引くと、うまく履くことができる=〈自らの力で、自信をより良くする〉)193頁。そうして人間は膨大かつ複雑な言語システムを獲得していくのである。
言語接地がなされると様々な推論のシステム(アブダクション推理)が起動し、学習が学習を呼ぶ。誰しも子供の頃偉人伝などで「ヘレン・ケラー」の言語学習のきっかけを目にしているであろう。サリバン先生は、ヘレンの掌に、ことあるごと、その言葉を英語で綴っていた。最初ヘレンはそれの意味することが理解できなかった。しかし、冷たい水を手に受けながら「Water」とてに綴られた瞬間、彼女は、〈ものとしての「水」と言葉としての「water」が一致した〉のである。つまり言語獲得の端緒を手に入れたのだ(記号接地)。そこからは、ブートストラッピングサイクルによる学習効果で自己増殖的に言葉や概念を身につけていく。
あくまでこれは一つの仮説に過ぎない。だが、なんとも説得力のある魅力的な仮説ではないか?
繰り返す。大変示唆に富んだ名著である。
群馬水上渓流釣り
9月24日〜25日、一泊で群馬県水上の沢へ渓流釣りに行ってきました。メンバーはトーイちゃん(師匠)、ノリさん(見習い)とイクラくん(中堅)の三人です。朝6時20分ノリさんを拾い、東名・圏央道・関越を走り、水上ICで高速道路と別れ、まだまだ緑濃き山中へ入っていきます。11時にポイント付近に駐車し、林道を15分歩いて、渓流におります。駐車スペースにすでに車2台あり。まあ、今日は練習ということで、さほど気にせず糸を垂らしました。餌はブドウ虫を使用。初心者感丸出しですが、背に腹はかえられません。
それらしいポイントで流してみますが、当たりさえもない。普通なら、釣れないにしろ、岩魚さんもチョンチョンと探ってくるものですがそれすらない。まあ、釣果は三人で骨酒サイズが2尾。でも、今日は昼間だし、車2台が先に入っていたし、まあ、こんなもんでと、さほど気にせず、6キロ離れた「尾瀬自然の森野営場」へ。後で聞いたらとんだハプニングが。ノリさんは渓流釣りが初めてのため、今回、竿を購入(6780円)したのですが、餌を付け替えている最中、一歩下がった際、竿を踏みつけ折ってしまったとのこと。ああ、これでまだ奥さんに馬鹿にされる!と嘆く新人なのでした。
サイト設営をおえ、15時から宴会開始です。骨酒の当ては、けんちん汁。乾き物などです、宴会の詳細はあまりに見苦しいので割愛します。
翌朝、フラフラのまま、なんとなく朝食を済ませ、なんとなく片付けをし、9時に昨日の駐車スペースに戻りました。が、すでに所沢ナンバーの番が一台。あら、釣り人は早いのね。当たり前だけど。ここで嫌な予感が。もう入っている。では我々は昨日のポイントよりさらに奥へはいねばならぬ。ということで昨日の倍ほど林道を歩き、帝統な場所で川に降りました。それから二時間三人はそれぞれのやり方で糸を垂らしますが、やはりほとんど当たりがない。それでもイクラくんは、どうにか1尾ゲット(ミニサイズ)。安堵し顔をあげ空を見上げると、秋の空気の中青空が広がり、清冽な流れに太陽の光が降り注いでいるのでしが。焚き火の準備をするトーイちゃんに合流。師匠の釣果は2尾(大1中1)。ノリさんは残念賞。というわけで三人で3尾。まあ、そんなもんでしょう。1尾ずつ食し、火を消し、林道へ戻ったのでした。やはあり、時期の問題が大きいという結論になりました。三連休が二回もあった後の平日。多くの釣り人が入り、釣り上げてしまったのでしょう。平日に来れる身の爺さんなのだから、来年はもう少し早めの時期の平日(金曜日頃)に入渓するのがいいでしょう。
水上温泉郷で偶然見つけた「天狗の湯」という日帰り温泉に浸かったのですが、そこは、洗い場もない、ただただひたすらお湯のみ、という施設で、いい温泉なのですが、少し残念。水上ICから関越に乗り、高坂SAで休憩及び給油をし、一路横浜へ。鶴ヶ島と圏央厚木、東名で多少混みましたが、それなりに順調に進み、18時ノリさんを送り届け、今回のツアーは終了しました、とさ。
千葉雅也『センスの哲学』読了
『センスの哲学』だが、本書はセンスが良くなる本ではない。いわば筆者の芸術論である。カントの『判断力批判』を少し念頭に置いているようだ。
さて、まずさっくりとした感想であるが、まず、すべての著作に言えることだが、千葉氏は上から目線ではない。読者と同じ地平から語りかけてくる。その点が非常に好感が持てる。非常に難しい話をしているのだが、筆者の柔らかい語り口と丁寧な論理とわかりやすい比喩とで、彼の言わんとする内容がすんなりと頭に入ってくる。また、自己と本書執筆の関係性などを非常に正直に語る。ズラしたり交わしたり、卑怯な真似はしない。常に対等に向かってくれるとともに誠実である。素晴らしい。
さて、本書は作者の芸術論である。音楽・絵画・映画・文学と内容は多岐にわたるが、その芸術一般の芯となるモノを丁寧に伝えてくれる。例えば絵が上手ということの初めは、モデルの再現性の高さを言うのであろうが、そうではなくモデルの再現から降りることがセンスの目覚めであるという。ヘタウマがいい。そして大きな意味から少しズレたところのものに視点を移行することで見え始めるのだ。意味から降りてリズムとして捉える。脱意味化。大きな意味から小さな意味へずらし、部分のつながりを見るようにする。感動を半分に抑え、小さな部分を言葉にする、つまり、小さなことを言語化するトレーニングの必要性を訴える。
上の文書は抜書きを繋いだだけのもので推敲が必要だが、とりあえず感動をメモにした。
筆者は、ドゥルーズに出会う以前に、絵画や映画音楽に造詣が深かったようだ。十数年封印してきた芸術論をまとめられたのは筆者にとって大きいことだし、今後の執筆活動にどのような影響がある、目が離せない。
しかし、である。
上写真に映る帯はいかがなものか? 売るために、販売数を上げるために、「東大・京大」を利用するのは別に構わないが、「センス」を標榜する著者にしては、あまりに「センスがない」ということにはならないか? この帯の文言を筆者が容認したのであるとすれば筆者の「センスのなさ」が感じ取られるし、作者の意向に反してこんな帯をつけられているのであれば、たとえ経済活動であろうとしても、少し気の毒な気がする。いかがであろうか?
ちょっとした話し
お彼岸を過ぎたにも関わらず連日の猛暑続きで,相変わらず朝畑。
5時前に近くのコンビニでおにぎりを一個買っていく。その買い物はPayPayで。
先日,いつものように会計をしようと,スマホをタップするも,メンテナス中とかでPayPayが使えない。財布がない。現金がない。でもお腹はすいた。どうしよう。
レジで困っていた、バイトの小原くんが,お店的にはダメなんですが,と言いながら,自分の財布からお金を取り出し,クールに支払機に投入。朝は次金曜日に来てますから。
ヒー。ありがとう。きゃー,惚れた!
で,今朝,朝5時,封筒にお金と,一筆箋に感謝の言葉を認めたものを入れ,本日食べる分のおにぎりの会計後,この間はありがとう!助かったよ。と言いながら、封筒を滑らせ,ついでによかったら食べて!といって昨日収穫したサツマイモを渡す。
彼もニコニコして気持ちよく受け取ってくれた。変な話だが2人で照れていた。
ちゃんちゃん。
松永K三蔵『バリ山行』読了
第171回芥川龍之介賞受賞作。選評で島田雅彦が「登山の細部を丹念になぞったオーソドックスな「自然主義文学」をベタに書いてきたところが評価された」とあり,ここに島田のシニカルを感じた。要は彼流のレトリックです小馬鹿にしているな,と思ったわけだ。
そこで,興味を持ち頁を繰った。すでに「文藝春秋」を買っていたため,それで読み始めた。
しかし,読み進めるうちにあまりに,上手いし面白いので,筆者に敬意を払い単行本も購入。
小説は言葉による建築物であるから,物語の中では様々な二項が絡み合いながら,三次元空間を生み出す。本作の二項も様々なバリエーションを持つ。
建物の外装の修繕を専門とする「新田テック建装」社員でいる私は,内装リフォーム会社から転勤して二年(内と外)。内装時代は飲み会など仲間との関係を拒み,それが遠因となりリストラされたため,今の会社では比較的人間関係構築に余念がない。
社内登山部に誘われ,複数人で登山道をワイワイ言いながら登る登山に徐々にはまっていく「私」。と同時に単独行を行う「妻鹿さん」。
二台目社長と藤木常務との間に経営方針から亀裂が入り,藤木常務が去った後は会社は傾いていく。
仲間との付き合いを大切にする「私」(大人数で登山道を歩く登山イコール決められたルートからはみ出すことはない),独自の路線を行く孤高の妻鹿さん(単独で道なき道を行く)。
様々な項目が絡み合いながら物語は進む。
やはり真骨頂は,私と妻鹿さんによるバリ山行のシーンだ。とにかく筆者の描写力は秀逸である。上手い。特に山の中の滝や苔の描写は大変魅力的である。その美しい自然も筆者の筆にかかれば,暗く恐ろしいモノに反転する。
バリルートと決められたルート。妻鹿さんと私。必死に会社にしがみつこうと喘ぐ私と孤高の妻鹿さん。
とにかく二項が効果的に上手く絡み合いつつ,ここぞと力を入れた時の描写のうまさ。それによりリアリティを感じながら,グイグイこの小説世界に引き摺り込まれていく。
しかし、捻くれ者のいくら君はあまりに面白い本作を手にしながら,こう思うのだ。「こんなに上手く分かりやすく面白いのはいけない。ダメだやりすぎ」。
素直じゃないね。嫉妬かな。もう少しゴツゴツしたところが必要だ,などと文句の一つも言いたくなる,そんな完璧な芥川賞作品なのでした。
カント『純粋理性批判』(岩波文庫)読了
8月1日に始まった今回のクルーズは突然、本日(9/10)幕を閉じた。岩波文庫版で上・中・下、3巻の膨大な哲学書である上に、さらに難解ときている。本日は下巻の122頁から始まった。各巻およそ350頁ある。まだまだ、あと一週間はかかると思っていた。以前、ペラペラとめっくったところ、最後の方はかなりの量で「付録」であるため、もしかしたら4日で終わるか、くらいの構えであった。ところが、終わった。142頁で終わであったのだ。あとは「付録」であった。
思えばここ半年、読書の中心は、カントであった。4月に西研の「カント」を読み、5月に竹田青嗣のカント。ようやや8月1日より本丸である、カント『純粋理性批判』に取り掛かった。やはり内容が難解である、さらには文体が読みづらい。カント独特の言い回し、思考回路に慣れるのに、かなりの時間を費やした。よって、本書一つのチャプターごとに、ことごとく対応している竹田「完全読解」に戻り、再確認する過程を取らざるをえなかった。竹田版で理解を深める、あるいは確認する場合がほとんどであるが、竹田版に理解できないところを本丸を読むことによって理解できる、と言う場面も意外に多く、苦しくも楽しい40日であった。
『純粋理性批判』は、Ⅰ先験的現理論、Ⅱ先験的方法論からなる。Ⅰは緻密に人間の認識を分析し、概念を整理している。それは、まるで自然界に存在する昆虫を一つ一つ丁寧に標本化していく作業に似ている。彼の目的は先験的理想(最高存在者=神)は認識不可能であるという地点に我々を導くことにある。その道筋を、「感性論」「悟性論(カテゴリー)」「理性論(アンチノミー)」と論を進め、スコラ哲学で散々議論され、答えの出なかった問題に終止符を打つ。ただしカントの立場としては存在の証明ができないのであって、不在が証明されたということではない。
Ⅱにおいて語られるのは、その思弁的認識の問いを、実践的な関心へと置き換えることである。つまり、われわれは「何をなすべきか」と言う問いである。そこからカントに『実践理性批判』につながっていくようなのだ。実践=道徳=生き方。
神は存在するか?否か?数百年にわかって議論された問題に終止符を打ち、新たた認識論を打ち立てた本書は、近代哲学の始まりの書であり、その後「認識論」はヘーゲル・ニーチェ・フッサール・ハイデガーに続くと、竹田は「完全読解」の後書きに記す。
先は長い。まだまだである。もちろんゴールはない。死が私の読書の終わりである。まだまだ死ねないことにあたらめて気付かされる。
今後、どうしようか? 『実践理性批判』に突き進むか? あるいはたの道へ進むか? いずれにせよ、次回の芥研から、マルクス『資本論』に入る。まずはここからだ。
大変だが、楽しい。ありがたいことである。
今井むつみ『「何回説明しても伝わらない」はいなぜ起こるのか?』読了
相変わらずカントの最中。ようやく下巻に入る。先は見えてきた感じ。
「耽美派が老境に入りカント読む」 いくら
自虐であります。
さて,本作。次の作品のテーマは「言葉は伝わらない」であります。
で、本作を見つけカントの頭休めに目を通しました。確か,日経新聞に広告がなっていたのだと思います。ビジネス書です。だが,著者は今井むつみ氏!認知心理学,言語心理学の権威。言語に関しての書籍も多数ある。この一点で本書を読みました。
で,結果ですが,まあ、よかった。キレが悪い表現だなぁ。ターゲットが完全にビジネスマンである点に減点(普遍性にかける)。ただ認知学者として明確な問題を,実例を上げつつ,平易な分かりやすい言葉で書いてある点は◯。
要するに人間は,生まれた環境も身につけた確かの質量も全て違う。つまり知識の枠組み(スキーマ)が違う。例えば「ネコ」と聞いて、かわいいと思う人も,あの目がイヤだ、と思う人もいる。全ての人は全ての背景が違うから物事の捉え方が完全に一致することなどあり得ない。
だが,それを前提に考えればモノの見え方は変わってくるだろう。
それぞれの認知バイアスを意識しつつ,常にメタ認知し,他者を認める能力を磨くこと,これしかない!
反省する点はたくさんあります。
ありがとうございました。
千葉雅也『オーバーヒート』読了
相変わらず、カント『純粋理性批判』の最中。今,中巻半分くらい。まだまだ,ようやく「アンチノミー」に最下からあたり。核心部分だから,一句一句大事に読む。だから遅い。その遅さこそ胸を張るべき,と自分を慰める(励ます)。
さて,カントと並走するのは,千葉雅也『オーバーヒート』(短編「マジックミラー」(川端康成文学賞受賞))である。
「私小説の脱構築三部作」(本人のXより)第二弾。ここでの「僕」は京都にある大学の准教授。専門はドゥルーズ。独身。ゲイ(ネコきぼう)。
恋人の晴人とのアンニュイな先の見えない関係が、小説の大きな柱。だが,そこに大学での同僚。地元群馬の友達。行きつけのバー。そしてそこでのナイーブな人間関係。などなど,たわいもないがキリリとしまったエピソードが絡み合って,話は進む。「僕」は言葉に犯された存在。ベースにあるのはイライラした空気感。だからこそ粗雑な生に欲情する。SEXのシーンは乾いた文章で快感も不快感も読者に与えない。そこにあるのは靭帯解剖の描写。冷徹でクールな言葉だ。どうしてそんな芸当が可能なのか?それは筆者が書きながら,その世界を客観的な視線で常に確認しているからだろう。自分自身をモデルにしてはいるが,その描かれ方は冷徹だ。しかし,たまに韜晦して見せもする。そこまでが芸(ゲイ)なのだろう。ひとこと一言が注目される。意味ありげな表現で読者を釣っているわけではない。そんなに安っぽくない。言葉が比喩が解釈がすべて芸になっている。
読んでいて考えた。小説において,いや小説の言葉において,読者が頁を繰る,読者にページをくらせるエネルギーはどこから来るのか?どうやったらその緊張感を保てるのか?鮮度の高い言葉以外にはありえまい。
という意味において,千葉氏の言葉選びは熟考されている。勉強になる。あやかりたい。素晴らしい作品であった。
なんだかヤバイなー。千葉雅也信者になりつつある。
千葉雅也『デッドライン』読了
今現在、過去の流れから、カント『純粋理性批判』と格闘している。現在4分の1といったところか。あと1ヶ月はかかるであろう。これと並行して、意識して小説を読むことにした。そして、それが、千葉雅也の初小説『デッドライン』なのであった。
千葉雅也氏とは、2023年の新書大賞を獲得した名作『現代思想入門』が出会いである。かなり砕けた言い回しで、しかし、わかりやすく現代思想の流れとそれぞれの関係性、読み方、有益な参考書などが記してある。現代思想への導きとして、のちに辞書的に使うかもしれない。書籍を読めば筆者の略歴が目に入る。そして、他の著書も。で、氏は小説も書くと言うこと、そしてそれが芥川賞候補や野間文芸新人賞・川端康成文学賞、などを受賞していることを知る。さらにゲイであることも。俄然興味が湧く。これは読まなきゃならん!
で、本作である。
2001年内部進学で大学院に進んだ「僕」の専門は現代フランス哲学。映画制作の手伝いをし、親友と深夜ドライブに行き、発展場で行きずりの出会いを楽しむ。論文執筆がいよいよ始まる。ドルーズ=ガタリ『千のプラトー』である。「動物への生成変化」。自由になる。それは動物になること。最初は順調に進むが、第二章で「僕」は躓いてしまう。全く書けない。時間だけが刻まれる。「デッドライン」は近づく。執筆できない苦悩から修士論文指導者「徳永先生」に「僕」は相談へ行く。そこでゲラに目をとした先生は、次の引用を指摘する。
ところが、まず最初に身体を盗まれるのは少女なのである。そんなにお行儀が悪いのは困ります。あなたはもう子供じゃないのよ。出来損ないの男の子じゃないのよ……。最初に生成変化を盗まれ、一つの歴史や前史を押し付けられるのは少女なのだ。次は少年の番なのだが、少年は少女の霊を見せつけられ、欲望の対象としての少女を割り当てられることによって、少女とは正反対の有機体と、支配的な歴史を押し付けられる。
そして先生は言う。「少女の尻尾を探すんです」
「僕」は事故のセクシャリティーが拒み拒まれていることに、自負と存在意義を持とうとしている。自分の欲望は男性に向けられるも、自分は少女になりたい一方で、男性にもなりたいと思考する。「僕」の中で、ドゥルーズが真の意味で結実する前に、一時的に方向を見失っている模様だ。まるで、芋虫が蝶になる経過段階としてサナギのように。
「僕」は書けない。「デッドライン」は超えてしまった。結局修士論文は提出されない。と同時に父の会社が不当たりを出す。突然、あらゆる不安の中に落とし込まれる「僕」であるが、そこに光明を差し伸べたのは母であった。「どうにするから、やりなさい」。僕は引っ越し、車を処分し、服を捨て、本を処分する。身の賭けにあったサイズになる。そこで終わる。「少女のっ尻尾」とは何か? 掴めたのか? いつの日か掴めるのか? 宙ぶらりんである。小説は全てを解決する必要はない。これは作者が我々読者に与えた課題なのだ。「さあ、この先はあなたが主人公です。この問題を引き受けてこい続けてください」と。
さまざまな魅力的なシーンが満載である。親友「K」。知子。先生。そこで提示される哲学的なエピソード。また、逆張りとしてのダンサー志望の「純ぺい」。細かや煌びやかなエピソードにまぶされながら「僕」の生は前に進む。新しい青春小説の世界が開示されたのだ。
ちなみに、本作は芥川龍之介賞に届かなかった。つまり、最終選考で落とされた。芥川賞の意味は優れた新人を発掘し世に出すことであろう。とすると千葉市はもうすでに哲学の世界で、あるいは学級の世界では実績を残し、そこそこの有名人でもある。東京大学で博士号をとっているそ、パリに2年ほど留学している。サバチカルでアメリカ生活もしている。のちに優れた作品の残す流行作家が芥川賞を取れないという現象は昔からある。太宰治、村上春樹、島田雅彦?等々。選考委員は言葉が達者な人たちであるから、落選の理由はいくらでも捏造できる。文体がどうの、構成がどうの。でも、嫉妬なのではないか?
最近「いくら君」は千葉雅也ブームである。彼の表現・彼の思想にもっと深く陥入したい。そんな欲望を抱かせる作家の発見であった。