斉藤哲也『哲学史入門Ⅲ』読了
とうとう最終Ⅲ読了。聞き書き哲学史、現代編。
Ⅲの射程。
1現象学(谷徹)フッサール・ハイデガー・メルロ=ポンティ・サルトル
2分析哲学(飯田隆)フレーゲ・ラッセル・ウィトゲンシュタイン
3近代批判と社会哲学(清家竜介)マルクス・ホルクハイマー・ベンヤミン
4フランス現代思想(宮崎裕助)構造主義ーポスト構造主義 フーコー・ドゥルーズ・デリダ
終章「修行の場」哲学史(國分功一郎)カント先生の言葉から
こうやって、改めて目次を拾い直してみて感じること。あまり自分の体に入っていない、実になっていない、ということ。フッサールの「現象学還元」とは「意識の外に物が実在しているという思い込みを一旦差し止めて、関心を意識の場面に引き戻すことを言う。意識という場面で起きている現象を、一切の先入観なしに記述分析すること」とある。理屈はわかる。文字の意味はわかる。でも体にストンと落ちた感覚は全くない。今までずっともそうなのだが、情けない話、「現象学」という言葉がどうしても自分の中で落ち着かない。わかった気になれないのだ。勉強不足なのか? センスの問題なのか? いずれにせよ。一時「身体論」が流行し何冊か読んだが、これはしっくりときたのだが。いかんなあ。
こういった通史の役割は出会いなのだと思う。いくら解説書を読んだとしても、著者のフィルターがかかるため正確ではない。だからといって何の予備知識もなしに原書に取り組むのも難しい。やはりある程度の武器を装備しなければならぬ。その自分が取り組むべき事前準備と装備を手にし、冒険に出発する決意を促すのが、この手の本の役割なのだろう。この手の本を読んでよしとしてはならぬ。というかそれはあまり意味があることとは言えない。ここを手がかりに、どこの山を登るのか? それを決めるのだ。もちろんストックや登山靴、食料は大切だ。場合によれば自身の命を守るためヘルメットやアイゼン・ピッケルも必要になるかもしれない。しかし、いくら富士山はこんな山である!とガイドブックをみても仕方がない。自身の足で登らなくては。行動せよ!「いくら君」! 確かに早くはないが、遅すぎるということもないだろう。
最終章で國分さんがカント先生を引きながら語る。「修行」であると。そう、知の修行。
カント『純粋理性批判』取り組むことにした。