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畑仕事、キャンピングカーの旅、サウナ、読書…晴耕雨読の日々を綴る【いくら君のこころととのう日記】

島田雅彦『小説作法ABC』読了

創作について 2024年12月5日

島田雅彦『小説作法ABC』読了

 ずいぶん長いこと,この本に関わっていたが,ようやく読了。あとがきによると,法政大学での講義をもとに書き直して、2009年に本作を上梓した。当時、筆者47歳。16年前にのことなる。

 彼は、大学四年生の時,『優しきサヨクのための嬉遊曲』で華々しくデビューし,その後六回も芥川賞候補に選ばれる才人である。実作者として23年目,油の乗った作家が、後進の指針にと書いた「小説作法」が本書である。ジャンルから構成、人称等の小説書きのイロハから始まり,豊富な文例を挙げつつ,世の中にごまんといる〈作家になりたい人〉に優しくエールを送る。中でも、私の、目を引いたのは,「10 創作意欲が由来するところ」と「11 番外編ー私の経験に即して」である。中年の島田が,老いても執拗に書き続ける古井由吉に、エネルギーの所在を尋ねたところ、老作家は「憎しみだね」と答えたという。負のエネルギー、社会に対して、自己の境遇に対して、個人に対して? いずれにせよ、書き続けるのは「憎しみ」が根底にあるからだという。

 

 閑話休題

 島田雅彦は。私と同学年である。誕生日は私よりわずか7日早い、1961年3月13日生まれ。さほど変わらないはずだった。彼は、一浪で、彼は東京外国語大学ロシア語学科、私は明治大学文学部。彼は大学4年で作家デビュー、私は教員採用試験におち、あたふたとしているころ。彼の最初の書籍を手にした際、彼の美しくも端正な近影があり、同級生の女子が「きゃー、素敵!」も萌えの表情、一方、私はうだつの上がらない、つまらない顔。その時点で不愉快であった。しかし、同級生が褒めたのは「作品」ではなく「顔」であったことが、まあ、唯一の救いといえば救いであった。

 彼はその後六回芥川賞候補止まりという記録を成し遂げ、文芸協会から、もう候補にはあげないよ、と宣言される。最後の候補を落とされた時、川端に噛み付いた太宰以上に、醜悪な文言を文春に書いた。開高健には「釣りでもしてろ」などと暴言を吐きまくっていた。私は、ザマアミロ!と溜飲を下げるものの、一方で少し同情も。

 

 私は、今までに、彼に三回会っている。

一回目は二十九歳の時。渋谷東急のカルチャーセンターで。文芸評論家「川村湊」が若手の作品五つをあげ読書会を行った時、招聘された島田雅彦は、川村湊がとつとつと話す横で、おしぼりで人形を作り、前の女性を笑わせていた。私は、最初から彼に対し絶大なる嫉妬心を持っていたので、「なんて不誠実な奴だ!」と独り憤っていた。

二回目は、神奈川県の国語部会主催の講演会に呼ばれ、島田が話をした時。

そして、

三回目。私が上越教育大学に内地留学していた際、修論指導者である「小埜裕二」(私より一つ年下)が山中湖にある三島由紀夫文学館主催の講演会に呼ばれた際お供した時。三島由紀夫研究者である「井上隆史」(白百合女子大教授)「佐藤秀明」(椙山女子大教授 当時)らが、司会進行をし、三人の研究者による発表と、作家島田雅彦の講演があった。当時、島田も私も三十九歳。彼は近畿大学でも講義の帰りに山中湖に寄ったと話をしていた。

 会が終わり、皆を誘い、近くの居酒屋家で打ち上げを開いた。たまたま席が、私、島田、井上、佐藤の四人となった。話をするうちに全員が神奈川県立高校の出身であることが判明する。島田は「川崎高校」、井上は「光陵高校」、佐藤は「小田原高校」、そして、私は新設校の「旭」。島田は、私の出身校名を聴き、「知らねえな」と一言。私は、殴る!、と思った。宴もお開きとなり、島田が仕切って「三千円通し」などと叫んでいた。奥の席に座る私に対し、島田は、自分のコートを指差し、「おい、にーちゃん、それ、とって」と言った。私は、いつか必ず、2回殴る!と思った。

あれから24年が経つ。今、私は小説を書いている。その動機は「島田雅彦」を「2回殴る」ことにある。

そのためには、彼の目に留まる作品を描かなければならない。

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