島田雅彦『小説作法XYZ』読了
島田の定義によると、前作ABCは学部・大学院レベルで、こちらXYZは本格派プロ仕様ということである。ABCn発表が2009年(筆者48歳)で本作が2022年(筆者61歳)。十三年もの時間が筆者をより深く大人に誠実に、そして過激にさせた。当たり前と言えば当たり前なのだが、彼の文章は短く的確であり挑発的でもある。うまい。物事に対してとても深く思考している。大変素晴らしい作品である。もうすでに権威だし。
しかし、小説作法で声高に創作とは何なのかと問うあり方は素敵だが、どうも彼の発表する小説にはあまり関心しない。昔からかなえいおっているのだが、大抵は期待外れの読後感で終わる。俺様の域に読者がついてこれないのだ、あっはっは。などと孤高を気取るのも負け惜しみくさくて悲しい。現代の坪内逍遥に過ぎないのか? 彼の創作については評価が分かれるところであろう。芥川賞に落ち続けていたこと、大江健三郎は島田の作品に対し、「彼は間違いなく才能があるが、…」みたいなコメントを残していた記憶がある。芥川賞の書評だったかな? まあ、先験的すぎて老人の選考員には理解できなかったという話もありうるが、同時代人の私も彼の編む創作の言葉には首を傾げるものがあった。
やめよう。彼のもん書き四十年の成果である本作は間違いなく名著なのだから。そこから始めよう。
前作ABCの目次は以下の通り。1 小説のジャンルとは 2 小説の構成法 3 小説で何を書くのか 4 語り手の設定 5 対話の技法 6 描写/速度/比喩 7 小説におけるトポロジー 8 小説ないを流れる時間 9 日本語で書くということ まあ、小説創作初心者に向けてのABCといういあ「いろは」である。
今回のXYZの目次は、1「私」の行方 2物語と形式 3言語と無意識 4様々な場所 5時間 6死、交換、宗教、である。いうならば言語獲得後の人類史とてもいうべき翼の大きさである。書き手が常にベースに持っておかなければならない、基本姿勢を網羅している。
そして、彼は最後に語るのだ。
「今日の世界にキリスト教やイスラム教といった伝統的世界宗教とその変種、およびナショナリズム、資本主義、陰謀論、反知性主義、SDGs(持続可能な社会目標)といったものが実質的に宗教として機能し、人々を洗脳している。そんな中で哲学や文学は傍流に追いやられ、影響力は低迷しているように見えるが、確実にむすの個人宗教を生み出してきた。文字通り、社会規範と化した大きな宗教を「大説」とみなせば、文学はそれに対抗する異端的な「小説」であり、それ自体が宗教革命となるのである。今を生きる人類は宗教革命に加え、ルネッサンスを遂行し続ける必要がある。『小説作法XYZ』は単に小説の書き方の指南書であるにとどまらず、文芸復興の手引書でもある。」(頁247)
「書く」行為は自由を得るためである。我々の心の自由を犯そうとする現実(政治・経済・戦争・陰謀)すべてが我々の敵である。正面切ってかかったら、2.26の将校のように権力から抹殺される。そうではなく、卑怯に姑息に裏側から彼らにアプローチするのが正しい。それが「文学」であり「哲学」であり、小説であるはずだ。
文科省は指導要領の変更で高等学校の「現代文」を「論理国語」と「文学国語」にわけ、必修は「論理国語」のみとなった。それは何を意味するのか? つまり小説なんか読まなくてもいい。小説を読んで、自ら考える頭を持つ・物事の根幹にある人間の問題を熟考することの無いように、仕向けようとしている。最近の大学入試問題において、私学の問題はまず小説は出ない。全て評論である。また、共通テストに一部小説が残されているが、大抵は評論であり、それがまた膨大な分量である。
文科省が求める人材は、多くの複雑な問題に対し深く考えることなく、サラッと全体を把握し、上からの命令に疑問を持たない人間である。みんな騙されちゃダメだ。自らの判断をしなきゃ。誰かにいつの間にか刷り込まれた、彼らにとって都合のいい人間になってはいけない。思う壺である。彼らを、微妙に交わしながら小さな王国を作らなければならない。
話がそれた。島田はリベラリストとして、我々を煽る。心の自由のためにやれることを考えろ!と。