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畑仕事、キャンピングカーの旅、サウナ、読書…晴耕雨読の日々を綴る【いくら君のこころととのう日記】

旧友の店 芝「小田島」訪問

その他のこと 2024年12月26日

旧友の店 芝「小田島」訪問

 最近、都内(江戸)散策に凝ろうとしている。夏は暑くて散歩に合わない。昔ほど冬が寒くない。12月から3月くらいが散歩にはちょうどいい気候なのではないか。

 昨日、芝ー芝公園ー増上寺ー東京タワーー日比谷公園ー皇居を歩いてきた。いわば表の東京だね。官庁街も行けばよかったのだが、爆弾を仕掛けたくなるのも無粋だと思い、あえて避けた。

 大学の友人に小田島正史がいる。仲間内では異質な存在であった。尖っていない、穏やか、落語、江戸文学、家は料亭、等々。仲間内は皆サラリーマンの子弟で教員になればいいや、民間は嫌だ、などと考えていた。はいつでもどこでも標準タイプという、ちょー詰まらない奴だったから、小田島のあり方が少し不思議で少し羨ましかった

 大学二年の時だと思う。彼の父親(割烹小田島のオーナー)が我々学生を招待してくれ、うまい魚と酒を振る舞ってくれた。ろくなものを食ったことのないガキは、刺身に焼き魚に手間のかかった割烹料理に、その価値もわからず、うまいうまいと食ったものだ。おじさんは、ニコニコしていた。

 卒業後小田島は実家を継ぐべく料理人としての修行を経て、父と並んで調理場に立った。各地に散った昔の仲間が、ぽつりぽつりと彼の家を訪ね、昔の話をして帰って行った。

 仲間の結婚式には必ずきてくれた。私の結婚式にも二次会にも足を運んでもらった。二次会では落語を披露してもらい大盛況であった。その後数年一緒にスキーへ行った。最後に会ったのは三十年くらい前、浅見慎也の結婚式だったと思う。年賀状の交換だけの付き合いになってしまった。が、いつも私の心に「割烹小田島」があった。

 で、検索したらすぐヒットした。便利な時代だ。地図アプリが道順まで教えてくれる。

 JR浜松町駅から八分。港区芝3丁目。すぐは慶應大学だ。周りには大きなビルが立ってしまった。が、店は四十年前のまま、何も変わっていない。変わったのは、親父さんもお袋さんも写真の中の思い出になったことくらい。小柄でキビキビ動く男が厨房で仕事をしていた。「小田島さん」と声をかけるとこちらへやってきた。「俺、わかる、菅原」「あら、どうしたの久しぶりだね」

 鯖定食をお願いする。ひっきりなしに客の出入りがある。なかなか繁盛している様子。夜は五時半から。「夜は少ないよ。クリスマスなんて誰も来やしねえ。昨日はお客さんとずっと呑んでいた」多少皺は増えたが、相変わらずの物腰、喋り。嬉しかった。鯖は油が乗っており、焼き加減も絶妙でうまかった。白菜の漬物(自家製)もいい漬け具合だった。美味かった。ありがとう。また来るは。今度は飲みに。じゃあ! ちなみに、増上寺のお賽銭とは違って、小田島は現金オンリーであった。何も変わっていない。そういえば、キャンディーズのスーちゃんのお葬式は増上寺だった。

 幸せな時間を過ごすことができた。

 東京タワーは、昔より小さくなった。日比谷公園内にあった「野音」はどこだ。端っこにひっそりと昔の面影のまま。今は、コンサート会場としては使われていないのかな? 1978年6月、ここでキャンディーズは泣き崩れながら解散宣言をした。その2年後に、彼女と原田真二のコンサートに来たこともある。若かった。楽しかった。夜、日比谷公園のベンチに座り、彼女とキスをして立ち上がったら、ベンチの後ろの覗き親父に「もう終わりか」と言われた。

 皇居はどこまでも広く、静かで、聖なる空気を醸していた。アジア系の外国人がたくさんいた。

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