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畑仕事、キャンピングカーの旅、サウナ、読書…晴耕雨読の日々を綴る【いくら君のこころととのう日記】

カント『純粋理性批判』(岩波文庫)読了

読書について 2024年9月10日

カント『純粋理性批判』(岩波文庫)読了

 8月1日に始まった今回のクルーズは突然、本日(9/10)幕を閉じた。岩波文庫版で上・中・下、3巻の膨大な哲学書である上に、さらに難解ときている。本日は下巻の122頁から始まった。各巻およそ350頁ある。まだまだ、あと一週間はかかると思っていた。以前、ペラペラとめっくったところ、最後の方はかなりの量で「付録」であるため、もしかしたら4日で終わるか、くらいの構えであった。ところが、終わった。142頁で終わであったのだ。あとは「付録」であった。

 思えばここ半年読書の中心は、カントであった。4月に西研の「カント」を読み、5月に竹田青嗣のカント。ようやや8月1日より本丸である、カント『純粋理性批判』に取り掛かった。やはり内容が難解である、さらには文体が読みづらい。カント独特の言い回し、思考回路に慣れるのに、かなりの時間を費やした。よって、本書一つのチャプターごとに、ことごとく対応している竹田「完全読解」に戻り、再確認する過程を取らざるをえなかった。竹田版で理解を深める、あるいは確認する場合がほとんどであるが、竹田版に理解できないところを本丸を読むことによって理解できる、と言う場面も意外に多く、苦しくも楽しい40日であった。

 『純粋理性批判』は、Ⅰ先験的現理論Ⅱ先験的方法論からなる。Ⅰは緻密に人間の認識を分析し、概念を整理している。それは、まるで自然界に存在する昆虫を一つ一つ丁寧に標本化していく作業に似ている。彼の目的は先験的理想(最高存在者=神)は認識不可能であるという地点に我々を導くことにある。その道筋を、「感性論」「悟性論(カテゴリー)」「理性論(アンチノミー)」と論を進め、スコラ哲学で散々議論され、答えの出なかった問題に終止符を打つ。ただしカントの立場としては存在の証明ができないのであって、不在が証明されたということではない。

 Ⅱにおいて語られるのは、その思弁的認識の問いを、実践的な関心へと置き換えることである。つまり、われわれは「何をなすべきか」と言う問いである。そこからカントに『実践理性批判』につながっていくようなのだ。実践=道徳=生き方。

 神は存在するか?否か?数百年にわかって議論された問題に終止符を打ち、新たた認識論を打ち立てた本書は、近代哲学の始まりの書であり、その後「認識論」はヘーゲル・ニーチェ・フッサール・ハイデガーに続くと、竹田は「完全読解」の後書きに記す。

 先は長い。まだまだである。もちろんゴールはない。死が私の読書の終わりである。まだまだ死ねないことにあたらめて気付かされる。

 今後、どうしようか? 『実践理性批判』に突き進むか? あるいはたの道へ進むか? いずれにせよ、次回の芥研から、マルクス『資本論』に入る。まずはここからだ。

 大変だが、楽しい。ありがたいことである。

 

 

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