千葉雅也『センスの哲学』読了
『センスの哲学』だが、本書はセンスが良くなる本ではない。いわば筆者の芸術論である。カントの『判断力批判』を少し念頭に置いているようだ。
さて、まずさっくりとした感想であるが、まず、すべての著作に言えることだが、千葉氏は上から目線ではない。読者と同じ地平から語りかけてくる。その点が非常に好感が持てる。非常に難しい話をしているのだが、筆者の柔らかい語り口と丁寧な論理とわかりやすい比喩とで、彼の言わんとする内容がすんなりと頭に入ってくる。また、自己と本書執筆の関係性などを非常に正直に語る。ズラしたり交わしたり、卑怯な真似はしない。常に対等に向かってくれるとともに誠実である。素晴らしい。
さて、本書は作者の芸術論である。音楽・絵画・映画・文学と内容は多岐にわたるが、その芸術一般の芯となるモノを丁寧に伝えてくれる。例えば絵が上手ということの初めは、モデルの再現性の高さを言うのであろうが、そうではなくモデルの再現から降りることがセンスの目覚めであるという。ヘタウマがいい。そして大きな意味から少しズレたところのものに視点を移行することで見え始めるのだ。意味から降りてリズムとして捉える。脱意味化。大きな意味から小さな意味へずらし、部分のつながりを見るようにする。感動を半分に抑え、小さな部分を言葉にする、つまり、小さなことを言語化するトレーニングの必要性を訴える。
上の文書は抜書きを繋いだだけのもので推敲が必要だが、とりあえず感動をメモにした。
筆者は、ドゥルーズに出会う以前に、絵画や映画音楽に造詣が深かったようだ。十数年封印してきた芸術論をまとめられたのは筆者にとって大きいことだし、今後の執筆活動にどのような影響がある、目が離せない。
しかし、である。
上写真に映る帯はいかがなものか? 売るために、販売数を上げるために、「東大・京大」を利用するのは別に構わないが、「センス」を標榜する著者にしては、あまりに「センスがない」ということにはならないか? この帯の文言を筆者が容認したのであるとすれば筆者の「センスのなさ」が感じ取られるし、作者の意向に反してこんな帯をつけられているのであれば、たとえ経済活動であろうとしても、少し気の毒な気がする。いかがであろうか?