芥研 千葉編
2023年6月16日(金) 19:00 千葉県中央区都町 長谷川宅に集合。
別胸の書斎にて、再会を祝い、ビールで乾杯、お寿司を摘む。
8時研究会開始。本日の発表者は清水君。テーマは「二つの観点から『明るい部屋の謎』(セルジュ テスロン)を読んでみる。
1、ロランバルトの批判的敬称としての写真論は可能か?
2、本社新論はスマホ写真時代にも有効な論点か?
章ごとに清水君のレジメに従い読み進む。
テスロンの新しさ。従来の写真論はプリントされた「写真」のみに焦点が絞られていたが、テスロンは一連の行為としての写真と捉える。つまり、ファインダーを覗き構図を決める、シャッターを押す、現像に出す(現像する)、プリントされた映像をみる、観察する、考える。という一連の行為全てを写真として捉える。
⇨写真は世界の客観的表象でも特定の意味を表彰する記号でもない。
⇨写真は心的な消化=同化のための道具で、代謝できない対象を一時的に留保する⇨トラウマ。
→三つの領域で同時展開、感覚=感情=運動の領域、映像の領域、言葉の領域。
結論 ロランバルトとの三つのすれ違い
「私にとって映像とは根本的に苦痛なものである」(ロランバルト)
⇨映像は、生産者にとっても、その映像によって捕えられたと感じる鑑賞者にとってお、トラウマを乗り越えようとする一つの手段なのである。
「あらゆる写真における死の回帰」(ロランバルト)
⇨写真が招集する固有の心的力学が依然として見逃されている。。
⇨密接な結合が間違いなく主体と世界のあいだに存在しとたということ、もう一つは、この結合は消えることのない傷跡、、、を互いに刻み込むような仕方で、すでに終わってしまっているということ、
「映像、それは私を締め出すものである」(ロランバルト)
⇨写真の官能性は、不在を喚起する、、ところにあるのではなく、むしろ未知なるものに向けて解放されているというところにある、、、、あらゆる写真には、潜在的な時空間が備わっている、、
なんやかんや、ツッコミをいれ議論し、わかったようなわからないような気がしつつも、バルトが道を定めてしまった写真論を発展させたものであるというところあたりで落ち着き決着。
前日の深夜3時3分に尿道から結石を排出した片岡さんは11時半頃潰れる。菅原も12時15分蔵ににはベッドに移動。おやすみなさい。