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畑仕事、キャンピングカーの旅、サウナ、読書…晴耕雨読の日々を綴る【いくら君のこころととのう日記】

三島由紀夫『仮面の告白』読了

読書について 2023年8月5日

三島由紀夫『仮面の告白』読了

 

 本作を初めて読んだのは、多分42,3年前大学生の時である。それから、少なくとも4,5回は再読している。

 正直いって、ずっと本作の良さがよくわからなかった。いくら君が師事した、故人「田久保英夫」氏に『仮面の告白』について問うた際、三島とほぼ同年代の、発表時に新刊で読んだ同時代人である氏は、「何か、とても煌びやかな、新しいものを感じ、非常につよい衝撃を受けた」と述べていた。それが、「いくら君」にはわからなかった。皮膚感覚として戦後生まれの「いくら君」にはどうしても、田久保氏が激勝する理由がわからなかった。

 今回、妻の理解のもと、多くの時間をいただき、読書に耽ることが許される身となった。7月は、平野啓一郎『三島由紀夫論』を読んで、少し本作について整理された感覚の後押しで、本手を手にとってみることにしたのだが、やはり、わからないものは、わからない。その時代に与えたインパクトは。

 しかし、三島が、平岡公威が、自分の未来を賭けて、並々ならぬ決意をもって、本作に挑んだのは間違いない。もし、本作が、華々しく輝かしく時代に受け入れていなかったとしたら、以下のような可能性だって決して否定はできないだろう。例えば、この作品を発表することで、世論が、彼にNO!を突きつけること、だって可能性はあったであろうし、あるいは、まったく、無視される、誰の話題にも上がらない、あるいは、すでにこの作品で作家生命を失う可能性ですら。

 しかし、三島が、『仮面の告白』を、身を引きちぎられるような思いをして描いたであろうことは、間違いない。

 平野氏はいう。「『仮面の告白』の主人公は、認識者としての自己と認識対象としての自己とに分裂している。ー-「告白」という形式の自己分析である。

 また、こうも。「ところが、『仮面の告白』の主人公は、そこに於いても他者から与えられた自己像を、自己と同一化することを峻拒する。そして、飽くまで記憶を通じて自己を言語化し、それを現実と対置し、また他者からの認識と決して混同せぬように対置するのである。

 この不変の本質の証明こそが、本作品の目的である。」(平野啓一郎『三島由紀夫論』31頁)

 

 三島は自己の内面に取材しつつも、精神の肉体の分裂が自己に引き起こす苦しみを内包する自己を、最大限丁寧に表出することで、タナトスに引きずられ、今戦後平和の中で自己を苦しめるニヒリズムから脱却しようとしたのである。

 精神と肉体。心では女を愛するが、肉体は男性を欲する自分。そうした自己の分裂を手なづけ、新たな道を戦後に求めようとしたのが『仮面の告白』である。

 

 結果、本作は戦後、多くの読者から絶賛を受け、好意的に受け入れられた。

 あまりに「いくら君」にとっては難解が語句が多用されており、辞書を引き引き読み進めざるを得なかった。あるいは、一ページ読み、天を仰いでため息を吐き。わずか250枚程度の作品に五日も用することとなってしまった。しかし、あまりに幸せな時間でもあった。

 

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