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畑仕事、キャンピングカーの旅、サウナ、読書…晴耕雨読の日々を綴る【いくら君のこころととのう日記】

ラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』読了

読書について 2023年8月15日

ラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』読了

《最も純潔ではない小説と同じくらいに淫らな貞潔な恋愛小説》

 先ほど、ラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』を読了した。古い文庫本だ。奥付けを見ると、「昭和54年2月25日 三十一刷」とある(新刊で買った確かな記憶がある)。あらまあ、浪人中だ。今から、44年前!? ということは、三島と出会う前にこの作品を購入しており、読み出してすぐさま放り、なおかつその後44年も開かれることがなかった本ということになる。

 やはり、本当の出会いとはものすごいものがあると、再確認する。「いくら君」が三島に熱狂して以来、ラディゲの名は「三島が書いた評論」や「三島を描いた評論」などに散見せられ、特に三島が彼のことをひどく愛していたこと、作品を高く評価していたこと、20歳で夭折したことへの憧憬などが繰り返し述べられている。よって、「いくら君」は当然、この作品を読もうと努力したに違いないのだが、20歳の頃は読めなかった。そしてほったらかしに(常に意識の底にはラディゲがあったにせよ)、今日に至ったというわけだ。

 なぜ、読めなかったのか? 今読んでみて、その理由がよくわかる。本作は〈三人称視点〉の作品で登場人物の内面に「語り手」が自由に出入りできる。そして、登場人物誰にでも平等だ。特別の誰か(例えば主人公)に語り手の心理分析が偏ることはない。結果、よくよく目を凝らして追わないと、この「彼」は誰なのか。3行先の「かれ」とは違うのか、混乱してしまう。よって、当時の根気のない、若い、愚かな「いくら君」には歯が立たなかったのだろう。(三島は15歳の時にラディゲを愛読していたそうだ)

 ドルジェル伯夫人「マオ」は、夫の友人である「フランソワ・ド・セリューズ」と恋をする。しかし、貞淑で常識的な彼らは自分の内面になかなか気づくことなく、静かに思いを育てていく。決して、互いに相手の気持ちを確認したい、などという欲望を持たない。あるいは、持たないよう、自己を押さえつける。その恋が始まり、さまざまな人物・エピソードを通して膨れ上がる恋心、そして自分を罰せようとする、倫理観の狭間で苦しむ二人。そして最後に「舞踏会」があり・・。

 文庫解説には「作中人物の抵抗のある、硬い心理の図表が、幾何学の線のように、美しく後づけられている」とある。そう、「語り手」が〈神の視点〉で、登場人物の内面を明瞭かつ分析的に描く。作者のとてつもない力量の高さ・明敏さが感じられる。一方で、一人称視点の作品とは違い、読者を物語に没入させる力が欠ける点、あるいは人工的な感じがする、というような批判も出てこよう。

 それにしても、こんなにも易々と登場人物の心理描写を明晰に行うことへの敬意と憧憬は残る。

 

 さて、とすると次は、『クレーヴの奥方』かな。

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