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畑仕事、キャンピングカーの旅、サウナ、読書…晴耕雨読の日々を綴る【いくら君のこころととのう日記】

ジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』読了(一応)

読書について 2023年10月30日

ジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』読了(一応)

 9月6日より、毎日2〜3時間本書読解に当ててきた。文章構成が非常に難解(ボードリヤール自身の問題・翻訳でるという問題)な上、筆者が使う術語も筆者独特の解釈のものが多く、一文を理解するためには、何度も辞書をひき、主語を確認し、遠くにある述語と結びつけ、とりあえず文章の構成を理解した上で意味内容を理解しようと試みをする必要があり、大変時間がかかる作業であった。

 最初は(特に第一部から第三部くらいまで)は本当に一字一句逐語的に理解しようと辞書を引き引き、メモをとりながら読み進めたのであるが、一日10ページも進まない日々の中で、これでは埒が開かないと観念し、分かろうとわかるまいとあまり気にせず前へ前へと読み進めた。結果、分かったようなわからないような、漠とした中での終わりではあったが、全体像を少しは把握できたような気がする。

 本作は1976年に発表された(日本語訳は1982年)。今から46年も前のことである。パーソナルコンピュータもスマートフォンもなかった時代に、まさに今われわれが直面している問題を言い当てている、ということは言えると思う。

 では、「われわれが直面している問題」とは何か? それは言い方を変えれば無数に存在するのであろうが、誤解を恐れず思い切って言えば、「身体的現実性の崩壊」ということではないだろうか? 

 「近代以前では(中略)、社会形成の原理としての象徴交換が生きていた。」(今村)。つまり、以前は、王の死と交換に社会秩序の安定が担保された時代であった。しかし、現代では、古典的な意味での「労働も生産」も、死んでしまった。残ったものはシュミラークル(偽物・模造品)だけである。ということをさまざまな先人たちの文章を梃子に、あの手この手で言い表そうとしたのが本作だと言えるとだろう。

 先日(10月28日)に、芥研が開かれ「第一部」を読み込んだ。(報告者、片岡)。次回は、11月25日に「第二部」を読むことになっている。私の(われわれの)理解がさらに深まり、さて、この『象徴交換と死』で予見された未来は、現代ですらまだ訪れていないのか? あるいは、現代は、もう、ボードリヤールが考えた時間をすでに超え、もっととんでもない時代に入ってしまっているのか? その辺まで、考察が進めば、素晴らしいな、と、思っている。

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