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畑仕事、キャンピングカーの旅、サウナ、読書…晴耕雨読の日々を綴る【いくら君のこころととのう日記】

       いくら君のこころととのう日記
読書について 2023年8月17日

ラディゲ『肉体の悪魔』読了

 前回に続いて、ラディゲ。処女作『肉体の悪魔』。訳者新庄嘉章の「あとがき」によると、『肉体の悪魔』はレイモン・ラディゲが、十六歳から十八歳の間に書かれたものとされている。本作が処女小説だというのであるから衝撃である。周知の通り、ラディゲは一九二三年、二十歳の時に亡くなっている。早熟の天才と言って誰も異論を挟む余地はないだろう。

 場面はフランス・パリ、およびその近郊の自然大き場所。主人公たちはマルヌ川のほとりのF・・・町に住んでいる。主人公は高校生(途中で中退)の「僕」(15歳〜16歳)と、知り合って間も無く結婚する「マルト」(19歳〜20歳)である。彼らは愛し合い、第一次世界大戦に出征中の夫ジャックがいないのをいいことに、逢瀬を繰り返し愛を極限まで深めていく

 ただの世間から祝福される愛ではない。手垢まみれのこんな言葉を使うのも不愉快だが、いわば「不倫」である。順調に親や友人が代表する「世間」と握手しながら愛を深めていくものとは異なる。「僕」は「マルト」を愛せば愛すほど、もちろんこれには、精神的意味だけでなく、肉体的な快楽も含まれている、出征中の夫を意識せざるを得ず、「マルト」はマルトで、世間から認められている夫との関係を完全に断ち切ることもできず、休暇で帰ってくる夫を受け入れる、つまり、二人を宥めるために多くのをつかざるを得ない。嘘を知る「僕」は「マルト」を嫉妬の力で激情的に責め、なじり、すぐさま嫌われる恐怖から、自分の態度や暴言を反省し、愛の証明を懇願し、また接吻から…。その繰り返し。ただただ苦しく、自分を縛り、彼女を縛り、誰にも認められない、二人だけの、危険なガラス細工の愛に溺れていく。

 『肉体の悪魔』は『ドルジェル伯の舞踏会』と違い、一人称小説である。厳密に考えれば、一人称小説は主人公「僕」以外の登場人物の内面はわからないはずである。よって、自分以外の心理を描く場合、セリフにするか、主人公の推量にするしかないはずだ。しかし、ここでの「僕」は自分の内面だけでなく、断定の形で「マルト」はじめ、他の登場人物の心理も細やかに分析する。その筆が非常に冷静で、青年期にありがちの自己陶酔的な甘えはない。冷静で合理的。不合理なエゴイズムに見える「僕」や「マルト」の突飛な言動をも自然に我々読者に納得させてしまう力がある。

 さらに、時に挟まれる箴言

 「子供はなにかと口実を考えるものだ。いつも両親の前で言い訳をさせられているので、必然的に嘘を着くようになるのだ」

 まさに。首肯す。

 

 過去にこんな厳しい愛の淵に陥りかけたことがあったような気がする。それは純粋であればあるほど困難で厳しく切ない。そして、その場を取り繕うために、「嘘」をつく。そしてその嘘が自分の純粋性を侵すことになる。嫉妬を呼び込む。罵倒する。それが、性愛の妙薬にもなることを途中で覚えてしまう。なんという無限地獄!

 

素晴らしい作品である。

 

次回は、ラファイエット夫人『クレーブの奥方』

 

読書について 2023年8月15日

ラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』読了

《最も純潔ではない小説と同じくらいに淫らな貞潔な恋愛小説》

 先ほど、ラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』を読了した。古い文庫本だ。奥付けを見ると、「昭和54年2月25日 三十一刷」とある(新刊で買った確かな記憶がある)。あらまあ、浪人中だ。今から、44年前!? ということは、三島と出会う前にこの作品を購入しており、読み出してすぐさま放り、なおかつその後44年も開かれることがなかった本ということになる。

 やはり、本当の出会いとはものすごいものがあると、再確認する。「いくら君」が三島に熱狂して以来、ラディゲの名は「三島が書いた評論」や「三島を描いた評論」などに散見せられ、特に三島が彼のことをひどく愛していたこと、作品を高く評価していたこと、20歳で夭折したことへの憧憬などが繰り返し述べられている。よって、「いくら君」は当然、この作品を読もうと努力したに違いないのだが、20歳の頃は読めなかった。そしてほったらかしに(常に意識の底にはラディゲがあったにせよ)、今日に至ったというわけだ。

 なぜ、読めなかったのか? 今読んでみて、その理由がよくわかる。本作は〈三人称視点〉の作品で登場人物の内面に「語り手」が自由に出入りできる。そして、登場人物誰にでも平等だ。特別の誰か(例えば主人公)に語り手の心理分析が偏ることはない。結果、よくよく目を凝らして追わないと、この「彼」は誰なのか。3行先の「かれ」とは違うのか、混乱してしまう。よって、当時の根気のない、若い、愚かな「いくら君」には歯が立たなかったのだろう。(三島は15歳の時にラディゲを愛読していたそうだ)

 ドルジェル伯夫人「マオ」は、夫の友人である「フランソワ・ド・セリューズ」と恋をする。しかし、貞淑で常識的な彼らは自分の内面になかなか気づくことなく、静かに思いを育てていく。決して、互いに相手の気持ちを確認したい、などという欲望を持たない。あるいは、持たないよう、自己を押さえつける。その恋が始まり、さまざまな人物・エピソードを通して膨れ上がる恋心、そして自分を罰せようとする、倫理観の狭間で苦しむ二人。そして最後に「舞踏会」があり・・。

 文庫解説には「作中人物の抵抗のある、硬い心理の図表が、幾何学の線のように、美しく後づけられている」とある。そう、「語り手」が〈神の視点〉で、登場人物の内面を明瞭かつ分析的に描く。作者のとてつもない力量の高さ・明敏さが感じられる。一方で、一人称視点の作品とは違い、読者を物語に没入させる力が欠ける点、あるいは人工的な感じがする、というような批判も出てこよう。

 それにしても、こんなにも易々と登場人物の心理描写を明晰に行うことへの敬意と憧憬は残る。

 

 さて、とすると次は、『クレーヴの奥方』かな。

読書について 2023年8月11日

平野啓一郎『「カッコいい」とは何か』

 タイトルだけ見れば、エラく軽薄に感じるかもしれない。しかし、筆者は、語源を探索し、戦後の日本に於けるジャズやロックの受容とともに、それがどのように爆発的に流行ったのかを検証するところから始める。

 そして、「しびれる」という体感を起点に、「ドラクロワ=ボードレール的な体感主義」や「経験する自己/物語る自己」といったキーワードを提示し理解を深める。あるいは、モード・ロック/ジャズ・ダンディズム等ざまざまな領域に踏み込みつつ、さまざまな角度から丁寧に論考を深める。

 特に私にとって、ロマン主義以降のフランス文学に関する論述がとても参考になった。

読書について 2023年8月10日

森鴎外「ヰタ・セックスアリス」読了

 最近の読書。平野啓一郎『三島由紀夫論』→三島由紀夫『仮面の告白』→森鷗外「ヰタ・セックスアリス」と流れてきております。というわけで、本日「ヰタ・セックスアリス」読了。中学生の時以来2度目だが、あの時はあまりよくわからなかった。着物の女の子が端折って主人公の前に飛び降りるところくらいしか覚えていなかった。

 今回は、なるほど、と頷きながら、鷗外の冷静で知的な文章を堪能しながら、楽しく読めた。やはり、鷗外の言葉は独特でいい。これを書いたとき鷗外47歳。すでに名を成し遂げた後の仕事であった。

 ちなみに「筑摩現代文学体系」4巻(森鷗外」から読んだのだが、この全集には少し思い出がある。

 私は24歳の時、神奈川県の採用試験に合格し、国語科教員として採用された。(ちなみに、同期には「俵万智」さんがいる)

 昔は、いい加減というか、おおらかというか、。職員室に、さまざまな営業マンが平気で出入りしていた。本の営業もあった。さまざまな全集をカタログで誘い、教員の衒奇を刺激するのである。国語の先生なら、日国くらい持っていなきゃ! 日本国語大辞典のことである。

 まだ若いというかガキの私は簡単に甘言の餌食になった。毎月5000円で、筑摩の現代文学全集が揃います。国語の先生なら、これくらい持っていなきゃ!はい、買います! ということで2・3年、毎月5000円引き落とされていたような気があする。

畑について 2023年8月10日

人参再挑戦

 

 毎年、冬の人参は、7月前半にまく。今年は7月10日に蒔いた。当初は芽もでて順調だったが、その後降雨なしの真夏日が長く続いた。毎日毎晩水をやったがダメだった。若い人参の芽は雑草に駆逐された。今年は諦めた。が、8月になって雨が降るようになった。台風の影響も大である。畑が湿っている。今がチャンスだと考え、今朝、急遽種を蒔いた。

 前回は普通のタネだったが、今回巻いたものはペレットタイプの「向陽2号」である。種に何かがコーティングされている。水持ちがよく、発芽率が高いそうだ。問題は値が張る。しかし、この際、そんなことも言っていられない。というわけで。をまき、籾殻をまぶし、不織布をかけた。人参は発芽が命。それまで水分を切らさない。これが肝である。

今回はうまくいきますように!

その他のこと 2023年8月6日

百合の花

今朝、畑の帰りに道端で咲いている山百合を摘んできた

「白い百合」というと、夏目漱石『夢十夜』の第一話を思い出す。また、『それから』のワンシーン。

百合の花言葉は「純潔」「無垢」「威厳」だそうだ。

深く頷く。

読書について 2023年8月5日

三島由紀夫『仮面の告白』読了

 

 本作を初めて読んだのは、多分42,3年前大学生の時である。それから、少なくとも4,5回は再読している。

 正直いって、ずっと本作の良さがよくわからなかった。いくら君が師事した、故人「田久保英夫」氏に『仮面の告白』について問うた際、三島とほぼ同年代の、発表時に新刊で読んだ同時代人である氏は、「何か、とても煌びやかな、新しいものを感じ、非常につよい衝撃を受けた」と述べていた。それが、「いくら君」にはわからなかった。皮膚感覚として戦後生まれの「いくら君」にはどうしても、田久保氏が激勝する理由がわからなかった。

 今回、妻の理解のもと、多くの時間をいただき、読書に耽ることが許される身となった。7月は、平野啓一郎『三島由紀夫論』を読んで、少し本作について整理された感覚の後押しで、本手を手にとってみることにしたのだが、やはり、わからないものは、わからない。その時代に与えたインパクトは。

 しかし、三島が、平岡公威が、自分の未来を賭けて、並々ならぬ決意をもって、本作に挑んだのは間違いない。もし、本作が、華々しく輝かしく時代に受け入れていなかったとしたら、以下のような可能性だって決して否定はできないだろう。例えば、この作品を発表することで、世論が、彼にNO!を突きつけること、だって可能性はあったであろうし、あるいは、まったく、無視される、誰の話題にも上がらない、あるいは、すでにこの作品で作家生命を失う可能性ですら。

 しかし、三島が、『仮面の告白』を、身を引きちぎられるような思いをして描いたであろうことは、間違いない。

 平野氏はいう。「『仮面の告白』の主人公は、認識者としての自己と認識対象としての自己とに分裂している。ー-「告白」という形式の自己分析である。

 また、こうも。「ところが、『仮面の告白』の主人公は、そこに於いても他者から与えられた自己像を、自己と同一化することを峻拒する。そして、飽くまで記憶を通じて自己を言語化し、それを現実と対置し、また他者からの認識と決して混同せぬように対置するのである。

 この不変の本質の証明こそが、本作品の目的である。」(平野啓一郎『三島由紀夫論』31頁)

 

 三島は自己の内面に取材しつつも、精神の肉体の分裂が自己に引き起こす苦しみを内包する自己を、最大限丁寧に表出することで、タナトスに引きずられ、今戦後平和の中で自己を苦しめるニヒリズムから脱却しようとしたのである。

 精神と肉体。心では女を愛するが、肉体は男性を欲する自分。そうした自己の分裂を手なづけ、新たな道を戦後に求めようとしたのが『仮面の告白』である。

 

 結果、本作は戦後、多くの読者から絶賛を受け、好意的に受け入れられた。

 あまりに「いくら君」にとっては難解が語句が多用されており、辞書を引き引き読み進めざるを得なかった。あるいは、一ページ読み、天を仰いでため息を吐き。わずか250枚程度の作品に五日も用することとなってしまった。しかし、あまりに幸せな時間でもあった。

 

その他のこと 2023年8月2日

運動!

 8月1日(昨日)から近所のチョコザップに通いはじめた。

 春の間は、週に2・3度、朝4時半から、5〜8km歩いていた。ところが、夏になり昼間畑作業ができなくなると、朝4時半から、畑に行くようになった。結果、朝歩きは休止された。代替の運動をするわけでもなく、昼間はずっと読書、たまに午後からサウナ、って感じの生活パターンが確立された。こんなに一日中本を読んでいるのは、大学生の夏休み以来かもしれない。(大学院生の時は色々雑用で忙しかった)

 要するに、歩数計が、一日200歩くらいしか示さない日が増え、着実に腹回りに浮袋をつけている状態が増幅された。ヤバいと思っていた。

 このブログでも報告したが、先日、青春18切符で、関西・中京方面に、サ旅に出かけてきた。その際、どの路線かは忘れてしまったが(ボックス席だったから、阪神・中京あたりだと思う)、席の目の前に、チョコザップの広告が掲示されており、いやがおうもなくなく、目に入ってきた。つい、真面目に読み込んでしまった。そして、その場で入会した。8月1日より、とかいて。

 というわけです。体重もBMIも体脂肪率もとにかく何もかもやばい状態です。すぐ疲れる。こんな状態では、秋に山に行けない。

 朝、畑帰りに30分。午後、読書をやめ15時から30分。試行錯誤しながら、筋肉を痛めつけています。

 いやー、帰宅後の、ホッピーやサワーがうまいこと!

 それじゃ、ダメじゃん!

読書について 2023年8月1日

平野啓一郎『三島由紀夫論』読了

 2023.7.11より読み出した平野啓一郎『三島由紀夫論』を本日(2023.7.31)読了した。  本作は平野啓一郎氏を文学に誘った(引き摺り込んだ?)三島由紀夫の4作品(『仮面の告白』『金閣寺『英霊の声『豊饒の海』)の作品論であり,作家論にもなっている。大変な労作である。  

 上記4作品のみならず,他の小説・評論・エッセイ・戯曲を援用しつつ,ファンである自己の思いなどを最大限抑制し,三島独特の感覚・論理を冷静に分析し,今まで学者や評論家が描いてきた三島論とは違った,新しい三島論を展開しており,私なぞは,今まで解けずモヤモヤしていた問題を,丁寧に論理を追いながら答え合わせをしてくれてくれているような感じがし,大変勉強になった。  

 三島の作家人生の始まりが20歳としたら,作家人生は25年である。  

 一方1998.8に「新潮」に掲載された「日蝕」でデビューし,たちまち時の寵児に祭り上げられた平野氏の作家人生も25年。  

 さらに本作をデビュー後まもなくから構想し,断続的ながら,作家生活とほぼ同じ時間を経て上梓された本作は23年という歳月が費やされている。  

 お疲れ様でした。ありがとうございました。というしかない。ちなみに作者はもうこれだけのものは書かないだろうと述べている。

  最後に,あとがきにあった平野氏の言葉を引用したい。

「私は,もし本書を三島が読んだなら,自殺を踏みとどまったかもしれないという一念で,これを書いたのである」  

 三島への並々ならぬ愛情が感じられる一文ではないか?  私はこの言葉を読み号泣した。

サウナについて 2023年7月29日

大人の夏休みー青春18キップーサ旅

 

青春18きっぷを使って、関西・中京方面へ、サウナの旅に出かけてきました。

 2023、7、24(Mon)朝5時自宅出発。横浜5:48発普通列車沼津行きに乗車。そして、JRの鈍行を、横浜ー沼津ー豊橋ー大垣ー米原ーと乗り継いで兵庫県の三ノ宮駅で下車。途中、静岡で人身事故があり(月曜日!)、約1時間半ほど遅れての到着。11時間半ほどかかりました。あんまりいっぱい電車に乗っていると、頭がぼうっとしてきますね。なんか、快も不快も感じないなんかの境地に揺蕩っているような感じでした。

 三ノ宮で下車し、目指すは当然「神戸サウナ&スパ」! やー遠かった。新幹線なら3時間ちょっとなのに。2400円でここまで移動しようと思うとそれなりの困難と肉体的負担は致し方ありません。

 無事チェックインし、サウナパンツをはき、いざ7階へ。すると支配人(業界では超有名人)が何やら細かな仕事をしている。で、「支配人! 横浜から参りました!」と最敬礼すると、一瞬間があり「お勤めご苦労様です」の答えと最敬礼返し。あー、きてよかった。

 昨年もやはり、7月にここへきているのですが、その時は、明日「新しいケロサウナ」がオープンという日で、私は入れませんでした。ちなみに「ケロ」とは、寒いさむーいフィンランドで長い時間をかけて成長し、そして立ち枯れした木をケロと言うらしいんです、だから、それは木材の宝石とも呼ばれ大層貴重なのです。その木をふんだんに使用した新しい「ケロサウナ」に一年越しでようやく入ることができました。

 中は薄暗いランプの灯りのみ。もちろんテレビなどありません。自分の世界に集中し北欧の神との交合をいたすのです。自由にロウリュウもできます。とても雰囲気がいいサウナです。

 で、水風呂。ここの水風呂は年中11,7度となっています。かなり冷た目。理由は1月17日に起こった未曾有の大災害、阪神淡路大震災を忘れるな!という気持ちから、この温度設定になっているようです。普通のサウナと合わせて4セットやり、夕食を取っては早めに就寝。

 

 翌朝(7月25日)4時ごろ起床し、4セット行い朝食会場へ。バイキングです。太るとか脂肪肝とか長生きとか一切考えず、いっぱいご飯をいただきました。

 8時頃出発。次の目的地は「大垣サウナ」です。11時半ごろ大垣へ到着し、駅前のタクシーへ。私が、暑いですねーと水を向けると、初老の運転手さんは、今日は今年一番だよ。とおっしゃっておりました。10分ほどで「大垣サウナ」到着。この施設は「ママ」と呼ばれみんなに親しまれているオーナーのお婆ちゃんに挨拶に来る、元気な顔を見て力をいただく、そんな気持ちで参りました。

 大垣はとてものいいところ。昭和ストロング系の100度を超すサウナと、質のいい水のお風呂。これだけで最高なのです。そんな凝った作りも広さもないシンプルな「昭和のサウナ」なのですが、ここにはとてつもなく細やかなホスピタリティーが存在します。それを静かにじわじわと味合うと幸福になれます。ママと亡くなった先代の作り上げた時間の重厚さを感じられるところです。

 3セットやり、2階でお食事。「トオルちゃん」オススメの生姜焼き定食をいただきました。「トオルちゃん」とは本施設の支配人、「ママ」の親戚。神戸と同様、業界では知らない人がいない超有名人です。

 2時過ぎに後ろ髪をひかれつつ「大垣サウナ」を後にします。「ママ」はちょっと見かけるくらいで、ご挨拶ができなかった。残念です。また来ます。その時はよろしく。

 

 大垣から名古屋へ。地下鉄に乗り換え「栄」へ。徒歩5分で、伝説の「ウエルビー栄」へ。オーナーの米田さんは、サウナ業界を盛り上げてきた殊勲のアイデアマン。ここには「ラップランド」があります。マイナス25度、ラップランドの冬を再現した小部屋があります。まあ、こんなもんまでつくちゃって!その情熱に感動するというか、呆れるというか。施設は新しくはないけれど、清潔でアイデアに満ち溢れた創造的な空間です。ぜひ名古屋にお越しの際は「ウエルビー栄」「ウエルビー今池」に寄ってみてください。米田さんのサウナに対する拘りと情熱と創意工夫を感じられることと思います。しかし、名古屋も暑い。

 やはり4セットやってちょっと飲んでカプセルへ。しかし、疲れているはずなのに、なかなか眠れず、10時頃もう一度レストランへ行って「台湾ラーメン」を食べてから眠りに入ることとなりました。

 

 最終日(7月26日)は東の聖地「サウナしきじ」へ寄ろうと思ったのですが、あまりに暑く、そんな元気が湧かずに帰宅することにしました。大垣からJRを乗り継ぎ沼津へ。駅前で海鮮丼をいただきました。さすが沼津、魚も山葵も最高でした。

 さらに東海道本線を乗り継ぎ3時過ぎ無事帰宅しました。

 この三日間非常に暑く(37度)、且つ、降雨がない! 実は、旅を楽しみながら、畑が心配で仕方がありませんでした。と言うわけで、帰宅後すぐ車に20リットルのポリタンクを二つのせ、畑へ水撒きに行ったとさ。はーよいよい。

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