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畑仕事、キャンピングカーの旅、サウナ、読書…晴耕雨読の日々を綴る【いくら君のこころととのう日記】

       いくら君のこころととのう日記
サウナについて 2023年8月30日

夏の「サ旅」第二弾

 7月の下旬に青春18きっぷを利用し、関西・中京方面への「サ旅」に行ってきました。

 8月に入り、暑いは、混んでいるは、畑は毎日行かなければならないは、お盆だは、諸々の理由で、畑に行く以外はひらすらをしていました。

 お盆も終わり、先週の病院ウィーク(母の付き添い・自身の胃カメラ等)も終わり、そろそろいいだろうということで、今度は信州サ旅に行ってまいりました。ガソリンも高いので燃費の良い軽自動車で行こうかと思っていたのですが、キャンピングカーをたまには動かしたほうがいいだろうと最終判断をし、「銀河」で出かけることにしました。(『銀河」は私所有のキャンピングカーの商品名で、(株)オーエムシーの作品です。4年前に購入しました。ハイエースベースのキャンピングカーです。)

 朝5時に出発し、東名-外環-関越-一般道を経由し、9時少し前に、草津温泉「大滝の湯」に到着しました。こちらは草津では珍しい日帰り温泉施設です。値段も980円とリーズナブル。JAFの会員証を見せれば一割引です。温泉はもちろん、とても酸性の強い個性的なお湯です。サウナはまあ普通ですが、お湯がいい、ことと、さらに地下に「合わせ湯」というものがあるのが特徴であり、最大の魅力です。合わせ湯とは温度の違う4つの風呂桶があり、それを1分ずつ順番に入っていくもの。体を順化させつつ高温の湯に浸かれるという体に優しい温泉の入り方だそうです。こちらに3時間ほどお邪魔をし、昼食(蕎麦平茸の天ぷら)も済ませ13時頃出発です。小雨が降っていました。気温は24度ほどです。

 嬬恋村のキャペツ畑を見ながら上信越道にのり、その後長野道松本方面へ合流し塩尻北ICでおりました。数分で本日のお宿「信州健康ランド」です。こちらは、温浴施設の総合デパートといった感じの施設です。さまざまなお風呂(温度・泉質・ジャグジー等々)・サウナ施設はもちろん、お土産、ゲームコーナー、麻雀、カラオケ、休憩室、幾つものレストラン、等々、中をふらふらしているだけで楽しくなります。ホテルの部屋入室後、軽く飲んで、お風呂へ行きました。アルコールが入っているので、体を清め、さまざまなお湯を楽しむだけに留めます。サウナは明日の朝決めるつもり。夕食をとり、19時には布団につきました。

 翌朝、5時サウナ2セット、6時半から朝食(バイキング)、7時半から2セット。9時出発。

 中央道を通り、一宮御坂ICで降ります。御坂みちの新道を通って一気に河口湖へ。(旧道を通ると、太宰が井伏の勧めで投宿していた「天下茶屋」があります。「富嶽百景」で有名なところです。今回はパスしました。)

 河口湖大橋を越え国道139号線を右折ししばらくすると、今回の最終目的地「桜庵」が見えます。こちらは美容家「たかの友梨」プロデュースというだけあって、細やかな気配りがさりげなくなされており、上品で静かな雰囲気の宿泊もできる温浴施設です。

 富士山麓ということでまず水がいい。さらにサウナも、最近塩サウナとバレルサウナが増設され、さらにととのい空間として充実の一途を辿っています。体を清め、38度の炭酸泉にゆっくり浸かります。炭酸はそのまま皮膚から吸収され血管を拡張させる効果があるそうで、心臓に負担のかからないお湯です。ドイツなどでは100年以上前から「心臓の湯」として利用されているそうです。

 まずは、「溶岩サウナ」。セルフローリューができます。ここは広くメインサウナという感じです。しばし休憩ののち、塩サウナで汗を吹き出させ、「バレルサウナ」で、さらにもう一絞り。バレルサウナは小さな樽状のサウナで定員四人と小さなものです。しかし、狭まく天井が丸いため、ローリューをするとあっという間に熱気に包まれ、半端でない汗が吹き出ました。しばし「ととのい椅子」にて休憩。

 昼食は2階のレストランで「ほうとうをいただきました。これが具沢山で出汁もいい味で大変美味しいものでした。

 それから、東富士五湖道路を通り東名御殿場から横浜町田へ。帰宅、15時30分。

お疲れ様でした。

 

 

読書について 2023年8月27日

平野啓一郎『本の読み方』スロー・リーディングの実践

 前回紹介した『小説の読み方』のが、発展編だとしたら、本作『本の読み方』初級編にあたる。読む順序(ここに紹介する順序)が逆になってしまった。だからと言って、なんということもない。それぞ素晴らしい読書論になっている。

 本作は2006年刊行され、好評により2019年6月に文庫化された書籍である。初版から13年もの時間が経過しているが、ゲラを読んだ段階で確信し著者はさほど手も入れず文庫化したということだ。

 さて、本作は平野氏が学生時代から作家としてデビューした以降も、一読書家として書籍に対して取り組んできたさまざまな読書術を惜しげもなく我々に教えてくれる物である。サブタイトルにもあるが、平野氏はまず、昨今の速読に疑問を呈し、徹底的にスロ・リーディングを推奨する。速読は作業だがスロー・リーディングは漫然と読むものに対し質的な差がつくものだという。

 ・量から質へ 速読家の知識は栄養ではなく単なる脂肪である ・小説はスロー・リーディングできない ・辞書を引く癖を付ける ・作者の意図は必ずある  ・すぐ前のページに戻って確認する  ・より「先に」ではなく、より「奥に」  ・傍線や記号をつける 

 そして「再読」にこそ価値がある!

 

 さらに実践編として、夏目漱石『こころ』、森鴎外「高瀬舟」、カフカ「橋」、三島由紀夫『金閣寺』等々の作品の一部の読解を通して、その作品の奥へ奥へと誓いを深めていく手立てを自分の身にできるよう、導いてくれる。

 平野啓一郎は若くして芥川賞を受賞し、次々と問題作・話題作を発表する優れた作家である。しかし、彼はどうやら天才ではないようだ。作品を深く理解するために何度も読み返し、辞書を弾き、立ち止まり、考え、という作業をひたすら繰り返すことによって、作家的内的財産を広く深く自分の栄養としてきた人である。また、書く方でも、原稿用紙換算で1日に4・5枚書けば、今日はよく仕事をした、と感じられるようなペースで進めているとのことだ。そこには、ただ長い長い思索があることは間違いない。

その他のこと 2023年8月25日

胃カメラ

 昨年7月上旬、大阪在住の友人に会いに大阪へ行った。冷房のギンギンに効いている新幹線に乗って。千葉の友人も別の新幹線だが、一緒に合流した。大阪の友人は我々を歓待するため、東京との文化の違いを明確化すること、大阪の名所を見せたいとの気持ちで我々を精一杯案内してくれた。ちなみに彼の体はとてつもなく頑強である。

 季節は夏である。気温は35度越え。その中、歩き、空調、35度、冷房、びしょびしょのTシャツ、冷え冷えの空間、と、案内してくれた清水君には大変申し訳ない言い方になるが、「連れ回された」のである。

 で、結局、横浜の自宅へ帰宅後、黒い物を嘔吐し、黒い便を肛門から排出し続け、救急搬送で入院した。食道・胃に酷い潰瘍ができ血を吹いていた。一週間入院した。その後、暑さ・汗、その後の冷えが怖くなり今に至っている。

 その後の一年検診のため、本日、胃カメラを飲んできた。大体大腸内視鏡も年一で入れている。ポリープが多い。

 年寄りは、色々と、検査しなくてはいけないことが多い。

 ちなみに、結果は良好。また、一年後とのこと。

 

読書について 2023年8月24日

平野啓一郎『小説の読み方』読了

 フランス心理文学読解シリーズを少しおやすみし、今回は平野啓一郎『小説の読み方』である。小説の読み方は、人によって、時代によって、性別によって、置かれる立場によって、それぞれ自由であることが保証される。

 しかし作者が魂をかけ紡ぎ出した物語の真の意図を理解できなければ、作者に寄り添うことはできず、自分本位な誤読に陥る可能性もある(誤読も自由の範囲にせよ)。そういった陥穽に陥ることなきよう、我々はただ漫然と小説を読むのではなく、しっかりと意識的に読書術を磨かなければならない。

 平野氏は、優れた読書家というだけでなく、実作家として、小説を書くことの意味から、そこに込められた作者の意図・願いなどを取りこぼさず読み込めるよう、さまざまな方法論を駆使しつつ、実際の作品をモデルにして、我々にその「コツ」をそっと紹介してくれる。

 それは、ポールオースターだったり、ドフトエフスキーであったり、綿谷りさであったりもする。しかし、そこにあるのは作品論ではなく、常に小説読みの我々読者に優しく寄り添ってくれてる読書家からのアドバイスなのだ。

 

ちなみに、本作は『本の読み方』の姉妹編として書かれた。順序が逆になったが、近々こちらも読み合わせたい。

読書について 2023年8月22日

内館牧子『終わった人』読了

 本日は昨年の8月心筋梗塞で入院し、ステントを入れた87歳になる母の検診日であった。1年ぶりの心臓検査。造影剤のようなものを入れ、平常時の心臓の様子をRIでみる。その後、薬剤を投入し軽い運動をした状態に人工的にし、また同じようにRIで心臓を見て、差を比較し、現在の状況を判断する、というものだ。医師の診断は二週間後である。それに「いくら君」は付き添った。

 朝自宅を8時に出発し(連ドラ見ず)、待ち/検査/待ち/🍙/待ち/検査/お会計と、終わったのは14時。待っている間ずっと、この本を読んでいた。最近のフランス文学研究の合間にちょっとずつ読んでいたのだが、本日一気に最終盤へ雪崩れ込んだ。

 読み始めは、少し馬鹿にしていたが(ごめんなさい)、さすが凄腕脚本家、一気に読まされました。すごい牽引力!自分自身の今の境遇とも重ねながら、時には涙し、汗拭きタオルで鼻をかみながら読むこととなった。

 主人公「田代壮介」の一人称語りの小説である。田代は岩手県出身。名門高校を卒業し東大法学部へ。そして大手銀行に就職。順調に出世街道を歩むも、40代で子会社へ出向。プライド高きエリートには不本意な形で社会から一度63歳で退く形に。

 カルチャースクールへ通い、ジムへ通いっても、プライド高き男は満足できず、社会に(会社組織に)戻りたいと、悩み苦しむ。ある時、ジムの仲間鈴木から彼の経営する IT企業に顧問として迎えられる。数ヶ月満足いくポジションをすごすも、社長鈴木は39歳という若さで動脈乖離のため死去す。そして、東大卒・大手銀行出身の「田代」に社長職への就任を懇願され、彼は迷いながらもその提案を受けることにする。

 会社は堅実な経営をし順調であったが、ソフト開発を受注し、納品までしたミヤンマーの会社が突然倒産し、三億円が入金されず、経営不振に陥り、数ヶ月で倒産。。家庭もうまくいかなくなる。しかし、家族との様々な葛藤を経、母と共に故郷岩手県盛岡で別居生活をすることになる。

 

 本作は地方新聞8社に連載された新聞小説で、2015年9月に発表され、2018年に文庫化された、65歳前後のサラリーマン必読の書!

読書について 2023年8月21日

ラファイエット夫人『クレーヴの奥方』読了

 「いくら君」は1980年(昭和55年)に一浪の末大学に入学した。文学部文学科日本文学専攻である。

 思いっきり日本の文学作品を読み込むぞ! と気合が入っていた4月、文学部の学生が基本的必修の講座として「文学概論」といういう授業があった。担当は、永藤某で唐木順三の弟子を自認していた。当時、まだ30代の若手である。

 その先生の最初の授業で「君たちが読むべき本」としてあげたのが、『クレーヴの奥方』と『碧眼録』(岩波文庫)であった。なぜ彼がその時、これらの本を若い学生たちに紹介したのか、その理由は忘れてしまった。が、「いくら君」の記憶に強く刻まれたことは間違いない。しかし、例に漏れず、購入するにはしたが(そして多分読み出そうとしたが)結局その時は読み通せなかった。

 で、この度、三島→ラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』→『肉体の悪魔』、そしてようやく『クレーヴの奥方』に辿り着いた。

 『ドルジェル伯の舞踏会』は1924(大正13)年、作者ラディゲの死の翌年に発表された。そしてラディゲは『ドルジェル伯』を書くにあたり、フランス心理小説、恋愛文学の始祖『クレーヴの奥方』(1678)に学んだことを明らかにしている。随所に参考にした痕跡が散見される。

 『クレーヴの奥方』は完全に古典である。日本で言えば江戸時代ですよ。フランスでは当時、小説(ロマン)はたくさん書かれていたが、近代文学として残る作品としては、この『クレーヴの奥方』の右に出るものはないそうだ。みな、騎士道物語であったり、パターン化された恋愛もので、人間の苦悩を描き切った古典的小説は『クレーヴの奥方』をもって嚆矢とするのが常識らしい。

 さて『クレーヴの奥方』である。舞台はフランス17世紀王朝時代の宮廷である。宮廷デヴューしたてのシャトラール姫(16歳)の美しさに多くの宮廷人たちは恋をするが多くのライヴァルを蹴落とし「クレーヴ殿」が彼女との結婚を手に入れることになる。しかし、クレーヴ殿は妻が恋人を見る目をもって自身を見てくれないことに不安を持つ。貞淑な妻ではあるが、私に恋をしていない。そう苦悩する「クレーヴ殿」である。奥方も彼に尊敬と信頼の心を持ちはするが、恋愛対象として見ることはどうしてもできない。

 そんな不安定な状況の中、恋多き男「ヌムール公」が奥方に恋をし、その情熱的な恋情により言葉にせぬとも、奥方にその気持ちは伝わる。奥方も「ヌムール公」への恋心を持つが、それを自身に認めたり、公に伝えることは、クレーヴ殿を裏切ることになるゆえ、心の底に押し殺す。しかし、ヌムール公は自分の恋心に誠実に行動しする。それがクレーヴ夫妻をとてつもなく苦しめる。妻の不貞を信じた殿は嫉妬で病に陥り亡くなってしまうが、とうとう最後に奥方は「ヌムール公」の申し入れを拒み、自分の心を通し貞淑を守り、短い人生を終える。そこに描かれる心理劇は凄まじい。「嫉妬」の恐ろしさ、破壊力を浮き彫りにする。

 最初の、小説の舞台・人間関係など、状況を読者に納得される描写の部分は多少かったるかったが、ヌムール公の押しと奥方の逃げの構造始まると、読者を最後まで一気に引き寄せる牽引力がある。傑作だ。面白い。

 しかし、こんな恋をしていたらやはり、心臓というか、神経がもたず、人はぬであろう。恋に殉死? うーむ。もう老人の「いくら君」には味付けが濃すぎるかもしれない。

畑について 2023年8月19日

地這いキュウリ絶好調!

5月1日に購入し植えたキュウリは、ほぼほぼ終了しました。

ですが、6月26日にポットまきし7月13日に植え付けした、地這いキュウリが絶好調になってきました。

ジャガイモの後作です。

6月19日(桜桃忌!)にジャガイモ堀りをし、その後、残渣米糠、そしてカルスNC-R(土壌改良剤)を漉き込み放置しておきました。今なら三週間ほでどで有機物は分解され、いい土になっています。そこにキュウリの苗を植えつきました。最近、ようやくキュウリが取れるようになってきました。本日は大漁です。

畑について 2023年8月18日

夏の草刈り

 最近、暑いし、ちょこザップの時間も工面せねばならないし、ということで、収穫するのみで、草取り・草刈りをサボっていた。今日は、妻も一緒に行ってくれるというので、収穫等は彼女に任せ、私は2時間ひたすら草刈りに専念した。毎日朝から暑いね。Tシャツがびしょ濡れになった。しかし、多少はさっぱりした。めでたい。

読書について 2023年8月17日

ラディゲ『肉体の悪魔』読了

 前回に続いて、ラディゲ。処女作『肉体の悪魔』。訳者新庄嘉章の「あとがき」によると、『肉体の悪魔』はレイモン・ラディゲが、十六歳から十八歳の間に書かれたものとされている。本作が処女小説だというのであるから衝撃である。周知の通り、ラディゲは一九二三年、二十歳の時に亡くなっている。早熟の天才と言って誰も異論を挟む余地はないだろう。

 場面はフランス・パリ、およびその近郊の自然大き場所。主人公たちはマルヌ川のほとりのF・・・町に住んでいる。主人公は高校生(途中で中退)の「僕」(15歳〜16歳)と、知り合って間も無く結婚する「マルト」(19歳〜20歳)である。彼らは愛し合い、第一次世界大戦に出征中の夫ジャックがいないのをいいことに、逢瀬を繰り返し愛を極限まで深めていく

 ただの世間から祝福される愛ではない。手垢まみれのこんな言葉を使うのも不愉快だが、いわば「不倫」である。順調に親や友人が代表する「世間」と握手しながら愛を深めていくものとは異なる。「僕」は「マルト」を愛せば愛すほど、もちろんこれには、精神的意味だけでなく、肉体的な快楽も含まれている、出征中の夫を意識せざるを得ず、「マルト」はマルトで、世間から認められている夫との関係を完全に断ち切ることもできず、休暇で帰ってくる夫を受け入れる、つまり、二人を宥めるために多くのをつかざるを得ない。嘘を知る「僕」は「マルト」を嫉妬の力で激情的に責め、なじり、すぐさま嫌われる恐怖から、自分の態度や暴言を反省し、愛の証明を懇願し、また接吻から…。その繰り返し。ただただ苦しく、自分を縛り、彼女を縛り、誰にも認められない、二人だけの、危険なガラス細工の愛に溺れていく。

 『肉体の悪魔』は『ドルジェル伯の舞踏会』と違い、一人称小説である。厳密に考えれば、一人称小説は主人公「僕」以外の登場人物の内面はわからないはずである。よって、自分以外の心理を描く場合、セリフにするか、主人公の推量にするしかないはずだ。しかし、ここでの「僕」は自分の内面だけでなく、断定の形で「マルト」はじめ、他の登場人物の心理も細やかに分析する。その筆が非常に冷静で、青年期にありがちの自己陶酔的な甘えはない。冷静で合理的。不合理なエゴイズムに見える「僕」や「マルト」の突飛な言動をも自然に我々読者に納得させてしまう力がある。

 さらに、時に挟まれる箴言

 「子供はなにかと口実を考えるものだ。いつも両親の前で言い訳をさせられているので、必然的に嘘を着くようになるのだ」

 まさに。首肯す。

 

 過去にこんな厳しい愛の淵に陥りかけたことがあったような気がする。それは純粋であればあるほど困難で厳しく切ない。そして、その場を取り繕うために、「嘘」をつく。そしてその嘘が自分の純粋性を侵すことになる。嫉妬を呼び込む。罵倒する。それが、性愛の妙薬にもなることを途中で覚えてしまう。なんという無限地獄!

 

素晴らしい作品である。

 

次回は、ラファイエット夫人『クレーブの奥方』

 

読書について 2023年8月15日

ラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』読了

《最も純潔ではない小説と同じくらいに淫らな貞潔な恋愛小説》

 先ほど、ラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』を読了した。古い文庫本だ。奥付けを見ると、「昭和54年2月25日 三十一刷」とある(新刊で買った確かな記憶がある)。あらまあ、浪人中だ。今から、44年前!? ということは、三島と出会う前にこの作品を購入しており、読み出してすぐさま放り、なおかつその後44年も開かれることがなかった本ということになる。

 やはり、本当の出会いとはものすごいものがあると、再確認する。「いくら君」が三島に熱狂して以来、ラディゲの名は「三島が書いた評論」や「三島を描いた評論」などに散見せられ、特に三島が彼のことをひどく愛していたこと、作品を高く評価していたこと、20歳で夭折したことへの憧憬などが繰り返し述べられている。よって、「いくら君」は当然、この作品を読もうと努力したに違いないのだが、20歳の頃は読めなかった。そしてほったらかしに(常に意識の底にはラディゲがあったにせよ)、今日に至ったというわけだ。

 なぜ、読めなかったのか? 今読んでみて、その理由がよくわかる。本作は〈三人称視点〉の作品で登場人物の内面に「語り手」が自由に出入りできる。そして、登場人物誰にでも平等だ。特別の誰か(例えば主人公)に語り手の心理分析が偏ることはない。結果、よくよく目を凝らして追わないと、この「彼」は誰なのか。3行先の「かれ」とは違うのか、混乱してしまう。よって、当時の根気のない、若い、愚かな「いくら君」には歯が立たなかったのだろう。(三島は15歳の時にラディゲを愛読していたそうだ)

 ドルジェル伯夫人「マオ」は、夫の友人である「フランソワ・ド・セリューズ」と恋をする。しかし、貞淑で常識的な彼らは自分の内面になかなか気づくことなく、静かに思いを育てていく。決して、互いに相手の気持ちを確認したい、などという欲望を持たない。あるいは、持たないよう、自己を押さえつける。その恋が始まり、さまざまな人物・エピソードを通して膨れ上がる恋心、そして自分を罰せようとする、倫理観の狭間で苦しむ二人。そして最後に「舞踏会」があり・・。

 文庫解説には「作中人物の抵抗のある、硬い心理の図表が、幾何学の線のように、美しく後づけられている」とある。そう、「語り手」が〈神の視点〉で、登場人物の内面を明瞭かつ分析的に描く。作者のとてつもない力量の高さ・明敏さが感じられる。一方で、一人称視点の作品とは違い、読者を物語に没入させる力が欠ける点、あるいは人工的な感じがする、というような批判も出てこよう。

 それにしても、こんなにも易々と登場人物の心理描写を明晰に行うことへの敬意と憧憬は残る。

 

 さて、とすると次は、『クレーヴの奥方』かな。

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