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畑仕事、キャンピングカーの旅、サウナ、読書…晴耕雨読の日々を綴る【いくら君のこころととのう日記】

       いくら君のこころととのう日記
サウナについて 2023年6月21日

舞浜ユーラシア

6月16日(金)は千葉長谷川さん宅で19:00より芥研だ。横浜から車で2時間弱。午前中に畑を終え、時間が空いた。

そうだ!千葉サウナへ行こう!」

ということで、自宅を13時前に出発し、14時半にはディズニーランド&シー側の「舞浜ユーラシア」へ。過去に一度だけ行ったことがある。素晴らしい施設だったという記憶。

フロントでJAFカードを提示しいくらか割引してもらう。まずは身を清めお風呂へ。お湯が太古の地層から汲み出しているという茶色で塩味のお湯が33度、37度、41度と数種類ある。他にも37度のジャグジー。サウナは80度のケロサウナと100度のフィンランドサウナ。あと低温の塩サウナ。上記の写真は外気よくから見えるディズニーランド周辺の風景だ。

とにかくサウナも水風呂もお風呂も外気浴も天候や風の力も手伝って、気持ち良くてしょうがない。

「ととのいました!」

3時間以上いました。

読書について 2023年6月21日

芥研 千葉編

2023年6月16日(金) 19:00 千葉県中央区都町 長谷川宅に集合

 

別胸の書斎にて、再会を祝い、ビールで乾杯、お寿司を摘む。

 

8時研究会開始。本日の発表者は清水君。テーマは「二つの観点から『明るい部屋の謎』(セルジュ テスロン)を読んでみる。

1、ロランバルトの批判的敬称としての写真論は可能か?

2、本社新論はスマホ写真時代にも有効な論点か?

章ごとに清水君のレジメに従い読み進む。

テスロンの新しさ。従来の写真論はプリントされた「写真」のみに焦点が絞られていたが、テスロンは一連の行為としての写真と捉える。つまり、ファインダーを覗き構図を決める、シャッターを押す、現像に出す(現像する)、プリントされた映像をみる、観察する、考える。という一連の行為全てを写真として捉える。

⇨写真は世界の客観的表象でも特定の意味を表彰する記号でもない。

⇨写真は心的な消化=同化のための道具で、代謝できない対象を一時的に留保する⇨トラウマ。

→三つの領域で同時展開、感覚=感情=運動の領域、映像の領域、言葉の領域。

 

結論 ロランバルトとの三つのすれ違い

私にとって映像とは根本的に苦痛なものである」(ロランバルト)

⇨映像は、生産者にとっても、その映像によって捕えられたと感じる鑑賞者にとってお、トラウマを乗り越えようとする一つの手段なのである。

「あらゆる写真における死の回帰」(ロランバルト)

⇨写真が招集する固有の心的力学が依然として見逃されている。。

⇨密接な結合が間違いなく主体と世界のあいだに存在しとたということ、もう一つは、この結合は消えることのない傷跡、、、を互いに刻み込むような仕方で、すでに終わってしまっているということ、

「映像、それは私を締め出すものである」(ロランバルト)

⇨写真の官能性は、不在を喚起する、、ところにあるのではなく、むしろ未知なるものに向けて解放されているというところにある、、、、あらゆる写真には、潜在的な時空間が備わっている、、

 

なんやかんや、ツッコミをいれ議論し、わかったようなわからないような気がしつつも、バルトが道を定めてしまった写真論を発展させたものであるというところあたりで落ち着き決着。

 

前日の深夜3時3分に尿道から結石を排出した片岡さんは11時半頃潰れる。菅原も12時15分蔵ににはベッドに移動。おやすみなさい。

 

 

 

サウナについて 2023年6月14日

雨予報結局曇り空

 天気予報では雨だった。今日は畑仕事は無理だなと端から決めてつけていた。

で、起床直後(5時)畑へ。収穫だけして(キュウリ4本、ズッキーニ1本、人参、長葱)帰宅。

 午前中は、読書と決めていた。芥研は金曜日から土曜日(一泊二日)。課題図書は『明るい部屋の謎』(セルジュ ティスロン)。一昨日から2度目を読み始める。ディテールはところどころはっきりとわかるが、全体像として論の像が結ばない。うーん、難しい。清水くんも忙しいのに時間を割いてレジメを送ってくれた、頑張らねば。と、8時半から12時までじっくり読書。労働者の頃と比べ、読書に対する忍耐力がついてきた。以前ならすぐに放り投げていただろうに、今なら頑張れる。

 とか、言いながら、母親の作った蕎麦を食べてお風呂へ向かう。今日は久しぶりに上星川駅前「満天の湯」。サウナアプリ「サウナ行きたい」によるとかなり高評価の施設なのだが、私はそれほどとは思わない。まあ、悪くはないけれど、なぜか、平日の昼間に行っても大変混んでいる。それが気に入らない(と言いながら回数券を買っているのだが)。

 前々から思っていたのだけれど、平日の昼間に、どうして働き盛りの年齢の男(30代〜50代)がわんさかいるのだろうか? みんな仕事しないのだろうか? 今日がたまたま休みなのか? そんな人がこんなに大勢いるのか? いつも頭に?が浮かんでは消えていた。まあ、最近はあまりそんなこと考えないけどね。

 身体を清め37度の漢方の湯へ。水通ししてサウナで8分。外気浴を10分。3セット。お疲れ様。

サウナについて 2023年6月12日

スカイスパ

 私が最もお気に入りのサウナの一つ「スカイスパ」。

 本日は、梅雨空。雨。畑へも行けない。薄寒いのに蒸し暑いから本を読む気にもならない。

 では、サウナでしょ! スカイスパ! 月曜日はポイント2倍デイ!いくっきゃない。

 ということで、横浜駅なら雨に濡れず直結、東口スカイビル14階「スカイスパ」に潜入。

 サウナは考え方によって、様々な分類法があるだろうが、私見では、銭湯系、郊外スーパー銭湯系、昭和ストロング系、都会派洗練系、と分けられるのではないかと考えている。

で、本日のスカイスパは、都会派洗練系老舗派ということになるだろう。

 横浜駅東口スカイビル14階にある。ここは、細やかなところまでサウナーの心理を掴んだ洗練されたサウナ空間である。本日行ってびっくりしたのだが、低音塩サウナが、定員14人セルフローリュー高温サウナに改築されていて、びっくり仰天。1、2ヶ月に一度ここ数年通っているが、毎回のように、ちょっとどこかが改変されていて、痒い所にさらに手が届くという感じなのだが、今回の大工事には驚いた。

 てなわけで、10時半(オーピン時間)に浴室へ入ると同時に、すぐさま垢すりコーナーへ向かいロッカーNoを記入。垢すりは11時開始。それまで、まったり湯船に浸かる、のが、いつものパターンだが、30分も我慢できず、無人の新築ローリューサウナへ。一人。ラドルで凛々しいサウナストーブ上の焼ける石に2杯かける。部屋は一気に蒸気に溢れ体感温度が急上昇する。約8分で退場。しっかり汗を流してから15度の水風呂へ15秒浸かる。なかなかなものだ。

 なんとも表現し難いのだが、サウナは、温度、湿度、調度、清潔、動線、その他いくつもの見えない計算をし尽くされた上で、この上ない快楽がもたらされる。少しでも気になる何かがあったら、ーー例えば水風呂の水が少しカルキ臭いとかーーもう全ては台無しである。そういう意味でとても繊細な空間なのだ。もちろん店側だけでなく、客の質も大切。みんなで作り上げる「ととのい」空間なのだ。

 11時にロッカーナンバーが叫ばれいざ垢すりコーナーへ。私は、ここでしか経験がないので他との比較はできないのだが、非常に効率的で人間的で温かみのある垢すり空間である。お姉さんも力強く威勢がよく且つ繊細だ。何も考えられなくなるくらい心地よい。仰向きでポロポロ。うつ伏せでポロポロ。ざーっと流して、石鹸で洗ってもらって、仕上げの頭皮マッサージで一丁あがり。時間にして30分。極楽の世界。で、時計を見れば11時40分。おー、あと20分で本日最初の12時のアウフグースではないか!

 アウフグースとはドイツ語でアロマ入りの水をサウナストーンにかけ蒸気を発生させた上で、タオルを方法で回し煽り、高温の空気を撹拌させつつ、お客さんに熱風を楽しんでもらう、という、いわばサウナのショーだ。タオル捌きなどはそれぞれ個性があり、なかなか楽しい。世界大会もある。

 で、12時にアウフグースが始まる。5分前にはサウナ室に入らないと、満席で入れなくなる。私は8分前に入り、お行儀よく下段に場所を取り、アウフギーサーが登場するのを待つ。12時にイケメンの彼は入室&自己紹介。拍手が起こる。早速ラベンダーの香水を含んだ雪玉をサウナストーブに乗せ、愛おしそうに丁寧に水を2杯かける。一気にサウナ室の体感温度が上昇する。上段に座っている人は大変だろう。そこで、彼は、器用にバスタオルで上下の空気を撹拌する。美しさと技術。腕の見せどころだ。汗が吹き出しっぱなし。普段はそんなに我慢できないのだが、熱くても湿度が高く、いきなお兄さんが美しく風を起こしてくれれば耐えられる。

 結局20分近くサウナへ入っていた。汗を流し水風呂へ。そしてインフィニティチェアーで休憩。何も考えられない。嫌なことは全く浮かんでこない。ただただ気持ちいい。5分から10分休憩して、温泉へ、ジャグジーへ、で、サウナ、水風呂、休憩。結局本日は4セットやりました。

 水分補給はお忘れなく。お風呂を出て水分を拭き取り、デジタル体重計に乗ったら0.85kg減っていた。さすがスカイスバ。いつもはせいぜい0.5kgなのに。

 

あーそれにしても、今年はエルニーニョ現象のせいか雨が多い。冷夏になるのだろうか? 明日は畑にいけるのだろうか? キュウリとズッキーニとそろそろミニトマトが取れるはずなのだが。ジャガイモも全て掘り起こさなくてはならない。3日、好天が続いて欲しい。

 

梅雨のサウナは気持ち良くも切ない。ありがとうございました。

 

読書について 2023年6月6日

『そして、バトンは渡された』(瀬尾まいこ)読了

 主人公「優子」は七回も家族の形態が変化する。実の母は亡くなり、父は3人存在する。

本作第一章はこう始まる。

 「困った。全然不幸ではないのだ。少しでも厄介なことや困難を抱えていればいいのだけれど、適当なものは見当たらない。いつものことながら、この状況に申し訳なくなってしまう。」

 優子はとってもクールで優しい子。特別に強いというわけではないが、目の前の現状を肯定的に受け入れていって最後に笑顔になれる。そういった特殊性を持っている。優子に関わる「親」は実の親を含めて5人いるのだが、全ての人が魅力的だ。こんなのあるわけないと、自然主義に傾倒した読者は思う。でも、最後の「森宮さん」の語りの章で涙が溢れ止まらなくなった。

 それと、登場するご飯やデザートがみんな美味しそうだった。美味しいものをしっかり食べていれば、それだけで幸せになれるのかもしれないね。

 ああ、なんて素敵な物語なんだろう。感涙。瀬尾まいこさん、ありがとう。

旅について 2023年6月6日

玉ねぎ

 昨日、昨年の9月に種を蒔き苗を育て、11月に植え付けた玉ねぎを収穫しました。コンテナ二つ分です。豊作でした。ありがとうございました。

その他のこと 2023年6月2日

大雨大風読書送り迎え

 本日6月2日(金)は、前日からの予想通り、大雨大風大嵐の1日である。

 当然、畑仕事はお休み。一日中読書三昧。

 本日の作品は『暇と退屈の倫理学』』(國分功一郎)と『そしてバトンは渡された』(瀬尾まいこ)。

 「暇と退屈、、」は二度目。「バトン」は何年も前からずーっと読みたくて、でもなんとなく後回しになってたものだ。ようやく日の目を見たという感じ。書斎は西向き。目の前に隣の屋敷の枝垂れ桜の枝葉が風雨に打ち付けられていた。それをのんびり眺めつつ安全地帯でページをくる。

 朝5時に、娘の家へ野菜の置き配。9時妻を職場へ送る。11時母を病院へ。15時40分、妻を迎えに。それ以外は完全に読書の時間。これだけ集中して読書に耽ったのは久しぶりの感じ。それにみんなを職場や病院に送ったりしてプチいいことした気分もあって、充実感満タン。

読書について 2023年5月31日

『明るい部屋の謎』(セルジュ ティスロン)読了

『明るい部屋の謎』(ティスロン)読了。

 文学研究会(芥研)の次回発表者清水君が本書について発表するということで、『明るい部屋』(バルト)に続き、本作を読んだ。ティスロンは1948年生まれのフランスの精神分析者であるが、さまざまな著作を発表しており、本作は写真論についてである。バルトの『明るい部屋』において規定されてしまい、そこから出られなくなった写真論を独自の理解と様々な哲学的論考をもとに、独自の写真論を展開している。それはバルト批判でもありオマージュでもある。

 一読で全て理解というわけにはいかないが、バルトよりは読みやすく、首肯できる点もままあった。

 研究会の日までまだ時間がある。『明るい部屋』とともに、本作ももう一度二度読み直し一層の理解を深めたい。

畑について 2023年5月26日

ジャガイモ

 夏野菜の苗(トマト/ナス/キュウリ)が植え終わると仕事はひと段落つく。そこで気温上昇とともに頭を悩ませてくるのは雑草だ。一通り、抜き終わると最初のところにもう結構生えている。そんな感じ。

 本日、ジャガイモ(メークイン)のためし掘りをしてみた。まだまだ小柄だがしっかりと成長している。葉はしっかりと緑だし、光合成をせっせと行っていることだろう。

 花も枯れた。これから徐々にはも黄色くなっていく。あと3週間ぐらいが収穫的期だと思う。

読書について 2023年5月26日

『先生、どうか皆の前でほめないで下さい』(金間大介)読了

 バルトの『明るい部屋』と並行して読んでいた。バルトは論理が難しく表現が特徴的なのでなかなか頭に入らず、何度も何度も一箇所を振り返るようなことがあり、なかなか進まなかった。

 そんなとき、本書を手に取り、そうだそうだと、納得しながら、心を落ち着けさせた。

 昨年度まで高等学校の国語科の教員をしていた。再任用で転勤した2年勤めたその学校はとてもいい学校だった。鐘がなる前に席につき、当然教科書や資料プリントは机の上に出ており、みんな一流大学進学を目さして一生懸命勉強し、私語もなく。。。

 みんなマスクをし下を向いている。誰も発言しないし、質問もしない。だから顔と名前が覚えられない。気軽に声をかけることもなく、なんとなく他人行儀で時を過ごす。みんな静かだ。だが、私の話を魂で受け止めていた生徒はいくらもいないだろう。みんな、共通テストでどれだけ点を取るか、そんなことばかり考えていた。(共通テストは全部選択肢だ。つまり答えがある。彼らの作業は、文章を読み解くことでも、自分の人生を深く考えることでも、心震わせることでもない。つまりこの5つのうちどれを選ぶべきか、その効率的な方法論を学びたいと考えているようだ。(これは俺の妄想の部分もある。反省する必要はある)

 だから、私の授業はとても無意味なものに思えたらしい。だけど、「いい子症候群」だから、冷ややかに文句も言わず、笑顔も見せない。

で、

 俺が精神的におかしくなった。身体症状にも出るようになった。だから、再任用期間3年を残し辞めた。耐えられなかった。

そんな「いい子症候群」の現在の若者を少しでも理解したいと、本書を手にした。

 

まあ、大体納得できた。その通りだと。しかし授業は相互作用だ。全く存在を無視されるような仕打ちを受けるということは、俺が教師としての資質に乏しかったということになるのか

あるいは努力。

「いい子症候群」あーいやだ嫌だ。

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