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畑仕事、キャンピングカーの旅、サウナ、読書…晴耕雨読の日々を綴る【いくら君のこころととのう日記】

       いくら君のこころととのう日記
読書について 2024年7月9日

黒川伊保子『孫のトリセツ』読了

 黒川伊保子『孫のトリセツ』読了。新聞で見てついポチっと。あっという間に読めました。

 筆者は、いくら君たちとほぼ同世代で2歳の孫がいる脳科学者・AI研究者である。これまでトリセツシリーズとして、『妻のトリセツ』『夫のトリセツ』『夫婦のトリセツ』など多数の著書を上梓してきた。そのシリーズの一環としての『孫のトリセツ』である。まず、冒頭にあるが、本社は孫の取扱説明書ではない。子育ての意識改革を促す啓蒙書、特に祖母祖父における孫への関わり方の指南書というところか。

 筆者は言う。我々が受けてきた昭和の教育、あるいは子供達に与えてきた平成の教育は「いい子」や「歯車人間」を育てるものであった。曰く、遅刻をしない。ルールを守る。与えられた課題を適切かつ迅速にこなす、等々。そういった20世紀21世紀型の教育はもう古い。これからはAI時代である。知識や課題解決はAIに任せておけばいい。大きな組織の有能な歯車思考ではこれからの時代を生きていけない。これからはAIにできない、あるいは彼の弱点である「発想力」「対話力」「問いを立てる力」を磨かねばならない、と。

 では、「発想力」「対話力」「問いを立てる力」を伸ばすには何が必要か。どういったことに注意すべきか。その根本になるのは自己肯定感である、と。何をいっても自分は認められている、という安心感、これが発想の自由さを磨き伸ばすと言うのだ。だから、いきなりのダメ出しはNGである。彼らの柔軟な発想力を殺してしまう。なぜ宿題をやらないんだ! なぜ、忘れ物ばかりするんだ! なぜ、先生の言うこたが聞けないんだ! こんなダメ出しばかりしていたら、子供は萎縮し、思ったこと、気がついたことを口にしなくなる。口にしなくなれば深く思考しなくなる。自己肯定感は減り、周りを見て同じように、突出しないように、と考えるようになってしまう。

 しかし、子育ては根気が必要だ。母が仕事に行く時間帯に、子供がご飯を食べない、ぐずぐずしている、などて怒鳴ってしまう気持ちはよくわかる。親は若く、またストレスも多い世代だ。彼らを責めるのは酷というもの。そこで登場するのが、祖母祖父である。我々は、孫が可愛いのは当然だが、親よりも距離を保つことができるし、余裕がある。だから、孫の母親(娘・お嫁ちゃん)を第一に立てながらも、やんわりと孫を包み込み、彼らの心理的安全性を確保してやらなければいけない。こんなことを言ったら叱れれる。こんなことを言ったら馬鹿にされる、という萎縮した心理状態では、自由な発想は育たない、というわけだ。

 そのことを保持できるよう、母親経験者であり祖母でもある筆者自身が具体的な問題を提示し解決策のヒントを与えてくれる。「はちみつ問題」「背中スイッチ」「鼻水吸引機」こう「公園デビュー」「ワセリン」「うんち」「早期外国語教育」等々、筆者が出会ってきた多くの悩みを具体的に挙げ脳科学者らしく答えをのヒントを提示する。

 最後に、一つ面白いと思った項目。

 P106「早期外国語教育は、是か否か」の項で、こんな文章で当たったので以下引用する。

 「日本語は、母音を主体に音声認識する言語である。母音は複雑な波形のアナログ音で、自然界の音(笹のこすれる音、小川が流れる音、風の音、虫の音……)とよく似た音声波形を持つ。このため、日本語で育つと、自然音を微細に聞き分ける能力が高い。具体的に言うと、日本語の使い手は、自然界の音を左脳(知覚した音に情緒的な意味を付す場所)で聞くのである。ひぐらしのカナカナという鳴き声を聞いて寂寥感を覚えるのも、笹の葉のサラサラという音を聞いて清涼感を覚えるのも、日本語の使い手に強く働く感性なのだ。」

 各国の人の国民生のようなものは、彼らが話す言語の特性によって脳のどの部位を刺激するかに違いから生じるらしい。これは新しい知見として記憶くにとどめたい。

 

その他のこと 2024年7月7日

昨日早朝

 最近、いくら君は絶好調である。体調がいい。腰も痛くない。精神的にも安定している(小説を書いていないから)。だから、チョコザップへ毎朝行く。→そのため体調がいい。全て好循環。悩みといえば、競馬が当たらないことくらいか。

 まあ、ともかく、チョコザップへ毎朝通う。もう少し涼しい頃は朝散歩して、チョコザップでストレッチ・筋トレという感じだったが、最近は暑いので、ウオーキングもマシンで行う。もう一つ、睡眠時間は以前と変わらないが深さが違う。ガーっと眠ってシャキッと目がさめる。起きてすぐ行動可能だ。

 で、朝2時半(普通他人は深夜と言う)にチョコザップへ行ったら、酔っ払いのお兄さんがマシンの前で寝ていた。一年通っていて初めてのことであった。少したじろいだが、すぐ気を取り直し、あらあら頑張っているわねー、と一瞥を投げかけて、いくら君はバイクへ向かうのであった。そしてストレッチを20分行う。それから徐にマシンに向かう。いくら君のルーチンは①ラットプルダウン→②チェストプレス→③レッグプレス→④アブベンチの順だ。

 ①を行う。上腕あるいは背中の筋肉に刺激を与える。②にはお兄さんが寝ているため、③へ。その間に酔人がゴソゴソ動くので目を向けると、あら不思議、もうそこにはいない。あら帰ったのかしら。さほど気にせず、②で大胸筋を鍛える。ルーチンを終えマッサージ椅子に座り、ふと視線を変えると、酔人は私が始めにやった①の椅子で寝ている。あらあら、彼は酔い眠りながらも頭の奥でいくら君のことを気にかけ、場所を開けてくれたのだ。寝ながら他者に気を遣っている。あるいは、寝ながら若干の後ろめたさを感じているようだ。少し申し訳ないような気持ちになる。

 さて土曜のAM2:30。チョコザップにて。酔っ払って寝ている会員Aと早起きすぎるジジイB。さてどちらに正当性があるか。6対4で彼が勝つような気がする。あるいはどっちもどっち? 少なくとも全面的にいくら君を支持する人間はいない気がした。反省する。

読書について 2024年7月7日

メルビィル『白鯨』読了。

 メルビル『白鯨』ようやく読了。長かった。岩波文庫版で上中下三巻、ページ数は1000オーバー。1ヶ月間この作品と格闘した。

 作者はハーマン・メルビル(1817〜1891享年72歳、米国)である。小説だけでは食えずさまざまな職業を経験した苦労人である。本作の名を知っている人間はとても多い。生前には世間に認められなかった本作も、彼の死後高い評価を得ることとなり、今ではアメリカ文学の代表的作品の一つとして数えられる。ところが、意外に読了した人間は少ないという話がある。長さ、退屈さなどによると推察される。それは翻訳の問題も大いにある。私が読んだ今回のものも、何せ、訳が古かった(私の手元にある岩波文庫は阿部知二訳初版は1956。その後改訂されていない。ちなみに現在の岩波文庫は八木敏夫訳でありこちらの方が読みやすそう)。その上、原文も相当時代性を表していると思われる。それも魅力の一つなのだが。

 時は日本史的にいえば江戸時代(19世紀前半)。当時アメリカでは捕鯨が大変盛んであった。周知の通り日本近代化のきっかけはアメリカの捕鯨文化である。鯨から採れる油が灯明用として大変需要が高い上に、また、肉・皮・骨・龍涎香(鯨の腸内から採取される香料)などいずれも珍重されたようだ。彼らは鯨を追い、ニューヨークを出港し、希望峰・印度・マレー半島・台湾を通過し、はるか東(極東)の島国日本沖まで船を走らせるのだ。船上で仕事をし、毎日同じ顔を突き合わせ、無事帰還するまで数年、ストレスも相当なものであったに違いない。大変な時代であった。しかし、未知との遭遇という浪漫がまだまだ大いにあった時代でもある。

 物語の大筋は、「モビィ・ディック」と名付けられた白い巨大(体長20mくらい?)なマッコウクジラに以前片足を食いちぎられ、その復讐に燃える「捕鯨船ピークォド号」「船長エイハブ」が陣頭指揮にあたり、命を顧みず白鯨を追い求め、遥か太平洋日本沖まで旅をする海洋小説である。海洋小説であるが、冒険小説ではない。著者の主眼は冒険には置かれていないからだ。

 語手は船員「イシュメイル」。当初は一人称で登場するも、じきに物語には登場しなくなり語手に徹する。イシュメイル初め多くの男たちが捕鯨船ピークォド号の乗組員となりニューヨークを出港する。しかし、なかなか船長エイハブは姿を見せない。船長室から出てこない。居るのにいない。このことが船員たちの妄想を膨らませる。みな噂でのみで彼の経歴を知る。以前捕鯨船乗組員(の中でも花形である銛手)であった若かりし日のエイハブはその時の航海で「モビィ・ディック」に片足を齧られ、今は膝下鯨骨の義足をつけている。また、かなり傲慢で偏屈な人間であるらしい、etc。

 そして出航後数日して、老船長エイハブは皆の前に姿を現し、本航海の目的を告げる。つまり、この航海は「モビィ・ディック」への復讐の旅である、と。金で雇われた船員たちにエイハブは私怨を晴らすことを強いる。当初困惑した乗務員たちもエイハブ船長の異様なまでの執念に圧倒され次第に共感していく。つまり、一丸となって「モビィ・ディック」を探しあて、銛を突き刺すことを夢見るようになる。それに対峙するのが一等運転士「スターバック」である。米国に家族を残している彼は、エイハブに敬意の念を持ちつつ、冷静に彼の蛮行を批判する。時にはピークォド号が無事ニューヨークに帰還するためには、エイハブ船長を殺害するしかないと思いつめるも、結局それにも及ばない。ちなみにコーヒーチェーン「スターバックス」は彼からきているらしい。創業者が3人いたので複数形にしたということである。

 さて、先に、この小説は海洋小説ではあるが、海洋冒険小説ではない、と、書いた。冒険譚ではないということだ。その手のハラハラドキドキで読者の興味を惹きつけ、最後にカタルシスを感じさせるもの、とは種類を異にするのである。大きな柱は復讐の船旅ではあるが、それよりも、船員の出自・性格・肌色を細かい描写、あるいは、鯨の種類・生態に対する説明、捕鯨の方法論、船の構造、鯨の肉体的特徴、鯨の捌き方、またその油の量・質・匂いの凄まじさ、時に出会う他の捕鯨船との交流等々、白鯨を求め航海するという大きな柱に様々な髭根が絡みつく。それもシェイクスピアの芝居のような大仰な台詞、また旧約聖書やギリシア神話からの多くの引用など、ラストに向かい作者の筆は寄り道だらけで全く急いでいない。まるで、長い長い退屈な船旅のようだ。小説の構造自体が船旅のメタファーになっている。それが物語の大きさになっている。

 また、乗組員は白人、アフリカから連れてこられた奴隷の末裔、あるいはネイティブアメリカン(インディアン)など多数の、さまざまな背景を持つ人種が混交している。乗組員=人類ということか。となると捕鯨船ピークォド号はノアである。旧約聖書からの引用多数ではあるが、乗組員がのぞれぞれの宗教も大切に描かれる。世界人類の旅の物語。

 最後に、ようやく、日本沖で「モビィ・ディック」に出会い銛を突き刺すも、三日三晩の格闘の末、乗組員は一人を残して、みな死んでしまう。生き残った一人は木端に捕まり数日後奇跡的にたの捕鯨船に発見され命をひろう。それが語手「イシュメイル」である。ラストシーンは壮絶でありながら高貴でもある。素晴らしいものを手に入れた。長編小説が持つ豊穣さが素晴らしい。

 

サウナについて 2024年6月21日

秦野菜園見学

 以前,トーイちゃんと呑んだ際,大玉トマトの仕立て方がひとしきり話題となった。彼は市民農園を借りて菜園ライフを楽しんでいる。トマト名人を自称する。

 過去に,私は大玉トマトを納得いく形で育てたことが一度たりともない。理想としては3個×5段の採取なのだが,葉っぱばかりが繁り実がまともにつかない。せいぜい一段目に1.2個なっておしまい。それも不細工な形。

 今まで彼の大玉トマト自慢に羨望と懐疑の念を持っていた。彼は「とにかく葉を落とせ」という。丸坊主になるくらいに!と,いささか極端なことをいう。それでは光合成はどうなるのだ?

 では,トーイちゃんの畑を見せてくれ,いいよ,というわけで今回の訪問に至った。

 私はお土産の野菜を載せ,秦野に向かう。彼は田舎の山形から送ってきたといって,私に「桜桃と新蕎麦」をくれた。すでにここでは交換様式Aの関係性が構築されている。近代資本性を超えたところの回帰である。田舎のオッサン同士の絆というところか。

 湘南ナンバーの車で菜園に向かう。よく整備された市民農園で,スコップや鍬などはそこで借りることが可能だ。水道はある。綺麗に区画化された小さな畑に創造者の思いが投影されている。キョロキョロするだけで様々なサンプルを見られ,勉強になる。向かう途中,彼の畑の知り合いからトマトを褒められていた。

 さてトーイちゃんの区画である。小さな区画に整然と野菜が配置されている。まず目につくのがやはりトマトである。場違いなほど立派なビニール屋根があり,周りは網で囲まれている。作り手の長年に渡る試行錯誤と現代における到達点が見られる。肝心なトマトであるが,1段目に立派な大玉が着いている。4段目まです実らせている。7段目の花が黄色い花を咲かせていた。スッキリとしている。葉が少ない。実りがグラデーションで可視化されている。私は唸った。ふ~む。さすが一過言持つだけのことはある。どうやら,肥料管理と摘心・摘果・滴葉が味噌であるようだ。とにかくシンプルな姿になるようしっかりと土作りをしながら過肥せず管理することが寛容らしい。勉強になった。ありがとう。

 畑を後にし,向かった先は,温浴施設「湯花楽」である。トーイちゃんのホームサウナである。ボロいボロいとdisる。ロッカーが壊れているとか,炭酸泉が壊れているとか。

 入泉の際,タダ券をくれた。前回クジを引きで当たったという。また,本日はシニアDAYでくじ引きがあるという。まさかそんなことは・・・。

 下駄箱は幾つか使用禁止の札だ下がっている。メンテナンスまで手が回らないということなのか? 受付でクジを引く。彼ーハズレ。普通である。そんなにしょっちゅう800円相当のタダ券を配っていては経営が傾くであろう。さて,私の番だ。手前の奴を引く。何やら棒の先が赤い。アタリである。タダ券で入りタダ券が当たった。無限ループ。ニラを思った。こんな人の良いことをやっているが,経営は大丈夫か?

 お風呂ははまあまあ(炭酸泉がいかほどに健康に良いかを大々的に語るパネルの下にひっそりと炭酸作成装置故障のお知らせがあった)。サウナは最高であった。

 今日は「サザエさん」のように二本立てであった。次来る時も「湯花楽」があるといいな。

  帰宅後サクランボをいただいた。甘酸っぱくてうまい。そういえば昨日は桜桃忌であった。

旅について 2024年6月14日

非日常あるいは伊豆

  年金生活者である。お気楽なものだ。畑仕事と読書が日々の中心である。

 しかし,それは日常生活である。日常はルーティンであるから禍の時間だ。知らぬ間に澱が溜まる。沈殿する。謎の不快感や体調不良が自らを侵す。

 40年来の友人に会いに行った。彼は川崎の家から河津の別荘に少しづつ軸足を移動させている。その彼から誘いがあった。私は抱えきれないほどの野菜を車に乗せ。河津に向かった。

 不思議なほど満たされていた。解き放たれているという実感に包まれている。沼津まで東名をのんびり80kmで走った。ラジオからは荒井由美の「あの日にかえりたい」が流れていた。涙がこぼれた。別に若い頃に戻りたいなどと思っているわけではない。若さなど夾雑物だらけで面倒である。削ぎ落とし身軽でいたい。が,ごくたまに心の隙間をついて,ノスタルジーが涙腺を崩壊させる。今日はその日のようだ。

 沼津ICで降り,市場内お気に入りの店「にし与」で昼食をとる。平日にも関わらず,この店だけ店外に待ち客が溢れている。美味くて安い。私には時間がある。何時までにどこどこへいかねばならぬ,などという縛りがない。すべて私の気分次第でいかようにもなる。待つこともまた喜びになりうる。当然のことではあるが,刺身は絶品であった。

 伊豆半島のど真ん中を走る。「湯ヶ島」はこじんまりとした文学たっぷりの温泉だ。川端がいて井上靖が,あるいは梶井基次郎が今もここには生きている。河があり山が迫る。緑の濃淡が目に眩しい。

 川端の出世作『伊豆の踊り子』が執筆されたことで「湯本館」は名高い。萎びたいい温泉宿である。本日は宿先で写真を一枚パチリでおしまい。

 さらに道を南下する。ワサビ田を目にすると発作的にハンドルを左に切り,旧道を走る。旧天城トンネルへ向かう。川端康成,松本清張,石川さゆり。この地をテーマにした作品は多い。作家の琴線に触れるただならぬ何ものがここにはあるのだろう。

 新道に戻りループ橋を超え,天と一瞬一体化する。

 踊り子が裸で「学生さん!」と叫んだ「福田屋」を横目に河津へ。友人は歓待してくれた。私を最も理解してくれている人間の一人である。

 2階の窓を開放し,爆音でJAZZを流す。2人とも口数は少ない。今朝までの雨が嘘のように穏やかな好天が広がる。風は爽やかだ。いつの間にか2人ともロッキングチェアーで居眠りをしていた。

 何も考えない。播種ことも土作りのことも草取りのことも頭をよぎらない。本を読まなければならぬ!という義務感もそこではない。ただセロニアス・モンクの奇妙な音階とリズムに身を任せている。

 山を越える風がなんともいえず心地よい。

 

読書について 2024年6月3日

竹田青嗣『カント「純粋理性批判」』読了

 5月9日に読み始めた、竹田青嗣『カント「純粋理性批判」』をようやく昨日(6/2)読了した。いやあ、大変だった。饒舌でレトリカルなカントの文章を、竹田青嗣は簡潔に精一杯わかりやすくまとめてくれているのだが、それでも「いくら君」においては、途中頭がぼうっとし論理が追えなくなり船を漕ぐ始末である。が、どうにかこうにか最終頁に辿り着いた。とても「わかった」などと胸を張れるような状態ではない。部分的には途中でカントの森に迷ったままである。

 西研のカントは、西研の言葉で丁寧にわかりやすく置き換えられていた。しかし、竹田青嗣のこの試みは、あえてそれをせず、我々読者に原形に寄り添うよう命じる。

 さて、私が本書より学んだことは以下とおり。

 カントは丁寧に過去の形而上学の誤謬を指摘し、誰しもが曖昧のままであった事柄に対し交通整理を行うとともに、新たな概念を取り出し?生み出し?(まるで空気中から酸素だけを抽出し、そして見える化するかの如く)名前をつけ整理する。漂うまま区分けされていない漸次的アナログ的哲学言語の世界を、言葉の力のみで事実を切り取り名前をつけ整理する。まるで昆虫採集をし、防腐剤を打って標本化するかのように。そして整理されたさまざまな概念から導き出された最も中心的なカント哲学の要諦を一言で言ってしまうと「わからないことはわからない」(形而上学の不可能性)ということであろう。(この平易な表現には多くの問題があるのを承知であえて言う)

 ギリシャ哲学より、千数百年にわたり人類の叡智は「神の存在証明」に対し二派に分かれ議論を重ねてきた。つまり「神は存在する」VS「神は存在しない」という具合に。しかしカントは人類の哲学史に大きな杭を打ち込み流れの方向を変えた。それとともに今後の人類の方向性を決定づけたと言っても過言ではないだろう。

 カントはアンチノミー(二律背反)の思考法でさまざまな議論を整理し、客観的事実のように振る舞ってきた過去の言葉を独断論として退け、我々には「真理」の姿を現前させることはできないのである、ということを明確化する。

 「こうして、双方の主張、つまり世界についての独断論と懐疑論の双方の主張が、じつはともに、原理的に確証できないものを絶対的に正しいと主張する「独断論」であることが明らかになる」(竹田p284)

 「世界は「一」であり、「無限」であり、「神」であるというスピノザ的独断論に対する、ヒュームの経験論的懐疑論、われわれの世界の全体について完全な認識を持つことは決してあり得ないという議論は、大きな意義を持っていたし、また理論的(筆者棒点)にも大変正しかった。にもかかわらず、ヒュームの議論は、いま示したような双方の独断論の必然性と動機(=関心)の深い理解にまでは達していない。(竹田p286)

 カントにおけるアンチノミーの要諦は「形而上学の不可能性」の原理ということだ。その上で、我々は何をどうのように考えていくべきか。という航路を開いてくれたのがカントの最も大きな成果なのであろう。

 

⭐︎『純粋理性批判』全体構成

 Ⅰ  先験的現理論→第一部門 先験的感性論 時間・空間

         第二部門 先験的論理学

          第一部 先験的分離論 概念の分析論

              カテゴリー 原則の分析論 判断力

          第二部 先験的弁証論 純粋理性の誤謬推理(魂)

              先験的宇宙理論 アンチノミー(世界)

              純粋理性の理想(神)

 

 Ⅱ 先験的方法論→第一章 純粋理性の訓練

          第二章 純粋理性の規準

          第三章 純粋理性の建築術

          第四章 純粋理性の歴史

 

 さて、このまま『純粋理性批判』(岩波文庫 篠田英雄訳)に直進すべきなのであろうが、流石にちょっと疲れたので寄り道することにする。それにしても、西欧における2千年の思惟の歴史の重厚さは大変なものである。カントーヘーゲルーフッサールーハイデガーとのドイツ語での思惟の流れ、そしてフランスにおける現代思想の流れ、それらの重厚で多様かつ饒舌な思惟の歴史は、何事かを常に明らかにしようとする、我々サピエンスの強い欲望の一つの現れ方である。東洋のそれは、真に近づきたいという欲望を動機とする点において同じだとしても、アプローチ方法が方向が全く異なる。西洋哲学のように知を言語で語り尽くそう、という意思にも魅力はあるが、東洋的な到達の仕方にも当然興味がある。私はいつか、禅的世界の研究に向かうような気がする。

 さて、次は何を読もうか? 「気絶するほど悩ましい」(チャー或いは阿久悠)

畑について 2024年5月30日

育苗終了

 昨日,モロヘイヤの苗を畑に植え付けた。

 1月下旬から様々な野菜苗を育苗してきた。1.2.3月までは部屋,外の往復。それ以降は基本昼間が外,夜は家へ。入れたり出したり,水をスプレーでやったりペットボトルで自作したジョーロでやったり,大変気を使う作業であった。が,ようやくそれが終わった。昨日のモロヘイヤ定植で家に一切の苗がなくなった。少し気が楽になった。

 ちなみに1月下旬から育苗してきたものを列挙してみよう。

ミニトマト・ナス(5/20定植)・サニーレタス・玉レタス(全滅)・ロメインレタス(二株成功)・キャベツ・茎ブロッコリー(後少しで収穫)・とうもろこし(徒長し全滅)・胡瓜・オクラ・モロヘイヤ以上。

嗚呼,また来年。

いや,今年の冬野菜の苗からか。レタス・キャベツ・ブロッコリー・白菜といったところ。

その他のこと 2024年5月24日

椅子

 

 以前,作家の平野啓一郎氏がX(旧Twitter)に,二十数年使い続けたレカロの椅子を処分し,新しい物を購入したとの内容をアップしていた。この椅子の元で数々の名作が生まれた(芥川賞受賞作もこの椅子から生まれたとのこと)のである。当人にとっては感慨深いものがあったろう。自身の軌跡や過去を葬り新たな自己に立ち向かう,などなど。

 最近腰の調子があまりよくない。というより悪い。いつからこうなったのか忘れた。いつのまにかこうなった。布団から立ち上がる時はある種の決意がいる。また,読書中はいいのだが,椅子から立ちあがろうとすると慢性化した腰痛を強く意識せざるをえない。

 そんな状態で漫然とする中,平野氏の逸話を思い出した。

「そうだ。椅子を新調しよう!」

 現在使用中の椅子は,30数年前,父が生前,職場の廃棄品を頂戴してきた代物である。まあずいぶんお世話になった。潮時であろう。妻はゲーミングチェアを勧める。それこそ,一日中ゲームをしている人が使う物であるから,腰痛に悪いはずはない,と。

 で,購入した。得意のAmazonである。安い。中国製である。少し心配ではあるが,えいやっ!と思い切った。数日後小さく梱包された荷物が届いた。各パーツバラバラである。自分で組み立てなければならない。マニュアルと睨めっこののち2時間かかった。しかし,完成した椅子に座るとすこぶる調子がいい。ヘッドレストもフットレストもある。心地よい。読書にも良いが,うたた寝に最高である。

 良い買い物であった。この椅子でカントを読み,うたた寝をするのである。

 ちなみに冒頭の平野氏のXを読んだ九州の博物館が廃棄処分の椅子を貰い受け,展示されるとのことである。

読書について 2024年5月17日

カントさん。ありがとう。

 カントを読むと,歯を磨いたり,鼻毛を抜いたり,眉毛に一本ピョロっと伸びている毛などが気になったりする。→身だしなみに気を配るようになる。

 また,よくうつらうつらし,心地よい。→気持ち良い。或いは健康になる。

 つまり,「カント」は人間に配慮と快楽と健康をもたらす,ということになる。

 

読書について 2024年5月17日

「カント」はサイコー!

 昨日(5/16)は夜中から朝にかけてけっこうな雨であった。大威張りで畑仕事休みの判断をした。

 ところで,かなり昔からの傾向であるが,いくら君は充分なる睡眠時間を確保できない。寝つきはいい(たくさんお酒をいただいておりますので)。ところが,3~4時間ほどで目が覚め,それから質の良い睡眠を取ることができない。睡眠は量ではない,質である。いや,両者のバランスが大切なのであろう。特に,ここ1週間ほど,睡眠の質が悪く畑でもいいパフォーマンスを発揮できないでいた。

 朝から読書三昧の時間を過ごす。ここ半年の中心は「柄谷行人」の著作群の読解である。特に近著2編(『世界史の構造』『力と交換様式』)の深い読解と解釈がテーマだ。その為に著者の過去の作品に当たったり,よく引用される「カント」や「マルクス」に立ち戻る必要性が生まれる。というわけで,ここ最近の課題はカント『純粋理性批判』である。もちろん徒手空拳で難解な大作に太刀打ちできるはずがない。そこで,入門書を2冊で概要を掴み,原書に当たろうと思っている。先ごろ「西研」の「100分で読書 カント」のテキストを読み,現在,竹田青嗣『カント『純粋理性批判』』をゆっくり丁寧に読んでいる。これは解説本というより,カントの言葉をやや簡潔に置き換えながらも『純粋理性批判』の言葉を原書通りに並べつつ,なるべく竹田青嗣の解釈が混じらないように配慮した作品である。

 それはすでに充分難しい。何度も何度も読み返し,辞書を引き,メモをとりながら,蝸牛のごときスピードで進んでいる。

 時に脳が限界を迎え,受け入れられなくなることしばし。

 気がつくと,本を片手にうつらうつらしている。船を漕いでいる。これがまた,なんともいえず心地よい。あちらとこちらの「はざま」で揺蕩うているのだ。

 昔なら,自らの無能さを責め,冷水で顔を洗っていただろう。しかし今はそんなことはいない。いつまでにカントを理解し,論文を書かねばならないとか,単位をもらえないとか,卒業できないとか,といったいわば外力によってこの読書が進んでいるのではないからだ。

 私の興味と意志か推進力のすべてだ。だから今無理しない。勿論完全ではないが,私は私の自由意思によって私の行動を規定している。私に命じることができるのは「私」だけである。つまり私は自由だ。

だから

カントはサイコー!なのである。

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