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畑仕事、キャンピングカーの旅、サウナ、読書…晴耕雨読の日々を綴る【いくら君のこころととのう日記】

       いくら君のこころととのう日記
読書について 2025年1月14日

竹田青嗣『はじめてのフッサール『現象学の理念』』読了

 今年初めの、哲学的取り組みは「現象学」とする。

まずは手始めに、竹田青嗣フッサールから。

 現象学の概念を把握するのは、いくら君にとって至難である。大昔からずっと気になっていた。そこで、少し手を出してみる。しかしよく理解できず討死する。そんなことの繰り返しであった。で、竹田氏の登場である。彼の哲学がの理解は幅も厚みもすごいものがある。昔は文芸評論家という肩書きであったが、今は哲学者というところなのだろうか。(柄谷行人が言うように、近代文学の大きな役割はもうすでに終わってしまったのだろう(『近代文学の終わり』)。よって、文芸評論は見向きもされない過去の遺物になってしまった。

閑話休題。

フッサールである。現象学である。

竹田氏による。古来哲学における問題は認識論であった。主観ー客観の一致は可能か、不可能か? 哲学者たちはその問題に取り組み、解決することができなかった。そこでフッサールはいう。「主観ー客観」図式を方法的に中止し(エポケー)、別の図式をとる、これを「現象学的還元」と言う。しかし、この図式がわからない。フッサールの言いようも、わかりにくい。そこで竹田青嗣の登場だ。

     「現象学的還元」は、まず客観が存在するという「措定」、つまり前提を中止する。そして全てを自分の「意識体験」に「還元」する。すると、世界の存在の全ては、自

    分の「意識」に生じている”表象”でる、と言うことになる。(21頁)

枠組みは、わかった、と言うことにしよう。しかし、わからない。竹田氏が丁寧に繰り返し説明してくれるにも関わらず、その論拠は雲を掴むような、あるいは砂上の建築物のような、あるいは蜃気楼を追いかけるような、作業となり、掴んでも掴んでも指先から逃げていく。

こんな状態で無謀とも思えるが、これ以降、原著『現象学の理念』に突入する。

読書について 2025年1月5日

川端康成「眠れる美女」読了

 こりゃ、やばい。相当やばい。

 〈川端康成〉。言わずと知れた、ノーベル賞作家である。美しい日本語の使い手であり、抒情的な物語の名人である。

 本作も、美しい日本語で描かれた切ない物語だが、その奥に男の、老人の絶望的な悲しみがある。ああ、とうとう、いくら君もこの境地に近づきつつある、ということなのだ。

 漱石も芥川も太宰も三島もみんな若くして死んだ。つまり老人文学が作品群に存在しない。老人の性を扱ったものとなると、寡聞にて谷崎くらいしか知らなかった(「瘋癲老人日記」「鍵」等々)。でも、川端のエロさは、谷崎の変態をうわまっているのではないか。変態が変態らしく行動するより、常人の奥に眠れる矯められた性の方が、それも不能になったのちの観念としての性の方が、エロいと思う。

 67歳になる江口老人は、友人から教えられた館を頻繁に訪れる。そこは、すでに男としての機能を失った老人のための逸楽の館であった。真紅のビロードのカーテンの奥には、薬物で眠らされ、絶対に目を覚まさない美少女ーー彼女と老人は一晩添い寝をする。江口老人は眠れる美女と添い寝をしながら、自身と語り自身の過去と対話する(当たり前だが、寝ている人間と会話はできない。よって若さを当てられ自己省察するしかない)。若い肉体を目の当たりにするということは、いやがおうにも自らの醜い老いを突きつけられことになる。江口老人の若い娘に対する視線は執拗である。とうとうねちっこい。熟れすぎた果実酒の芳香で、我々読者は陶酔し蠱惑的な死を予見する。まさにデカダン文学の真骨頂である。本当に驚いた。

 もし、三島が生きていたら七〇歳くらいで老人の性を描いたかもしれないが、上述のように昔の文学者は若くして死んでおり、残っていないのが、残念だ。

 現代ーー我々のたつ地平は、政治も経済も文学もみな表面の世界で席巻されてしまっている。リアルなものでなく作り物のツルツルな世界。裏側は禁止され闇に沈静しネットの中で蠢くしかない。

 今、著名な作家はこういったタイプの作品を書かないだろう。テーマにないのではなく、社会的な忖度というか配慮から。もしかしたら、自分の名声が全て台無しにされる可能性があるから。

 あるいは、やはり、川端のエロス感受性描写力が突出していたということなのかもしれないけれど。

 

その他のこと 2025年1月4日

大トロ

大トロを柵でいただきました。

口の中で,とろけます。ビックリしました。

美味い😋

その他のこと 2025年1月2日

2025目標

◎読書(カント『実践理性批判』を含む)

◎薩摩芋3倍増 ナス・オクラ十一月まで収穫 大玉トマト成功

◎100枚以上の小説、3本執筆。

◎JRA万馬券3本。

 

   以上

読書について 2025年1月2日

内田樹『コモンの再生』読了

内田樹『コモンの再生』読了。

本作は、雑誌「GQ  JAPAN」に連載されたエッセイをまとめたもの。

 これらのエッセイの成り立ちであるが、編集者今尾氏と編集長鈴木氏が隔月神戸にあつ内田氏の自宅を訪れ、そこで今尾氏が提示した質問に対し、鈴木編集長と内田氏があーれもない、こーでもないと、議論したものを文字起こしし、編集しなおしたものだそうだ。一人で原稿用紙(キーボード)に向かって文章を作るのとは違って、自分自身想いもしなかったような意見が出てくるスリリングな楽しさがあるであろう。

たいていのお題は時事問題であり(「モリ・カケ問題」「東京オリンピック」「政治の劣化」「グローバリズム」「トランプ」等々)であり、発売が2020年なので、今読むと、若干古い気はする。

 国民国家の衰退と今後の在り方予測がさまざまな切り口から語られるが、ベースにあるのはアンチ・グローバル主義がもたらす個人主義的な「〜ファースト」の内包する了見の狭さから脱却し、「周りの人たちを「同胞」と感じることができ、その人たちのためだったら、「身銭を切ってもいい」と思えるような、そういう手触りの温かい共同体」をどうやって立ち上げるか、がテーマであると思う。

 原理主義的に極へ走れば、違う意見の人間を憎むことにしかならない。俺はこうだけど、そういうのも、アリだよね、的なゆるさが、これから求められる世界観になると思う。

読書について 2024年12月27日

永井荷風『濹東綺譚』読了

 先日、漱石の「こゝろ」を読んだばかりだが、今回は荷風の「墨東綺譚」にチャレンジした。漱石は1867年生まれ。一方荷風は1979年生まれ。年の差、わずか12歳である。しかし、荷風は漱石よりずっと長生きをした。元々世捨て人的生活を好んだ男であったが、移り行く東京の下町を活写し、当時の風俗の一片を我々に知らせてくれる。「こゝろ」に出てくる地名に黄色のラインマーカーを、「墨東綺譚」のそれにはピンクのマーカーを記してみると、面白いほどはっきりと両者は交わらない。同じ東京でも全く、二人の目に見えていたものは違うものであったのだろう。

 本作は、荷風57歳の作。麻布区(今の東京タワー側)に住む文筆業の「大江匡」は、陋巷の私娼窟である向島寺島町「玉の井」(今のスカイツリー側)の風情に興味を持ち足繁く通い、好奇の眼差しで観察記録する。小説内の時間は初夏(梅雨)から初秋(彼岸)までの三ヶ月間である。「わたくし」が玉ノ井を徘徊していると突然の驟雨にやられる。そこへ後ろから「檀那、そこまで入れて行ってよ」と声がかかる。年は24、25歳「いい容貌」の女である。そして彼女の部屋へ通いながら老人の創作欲を刺激される。作中内作品として『失踪』という小説が挿入される。中学英語教師「種田淳平」は退職金を持って、妻や子から失踪し、若い女と一緒になる。そんな小説を構想しながら現実の自分の娼家通いから得られる興奮や発見をガソリンに『失踪』を構想する。

「わたし、借金を返しちまったら。あなた、おかみさんにしてくれない。」

「わたくし」大江は彼女から離れることを心に決め、足が遠のいていく。

譲治、抑制的な態度で街の時代の人間の変化を観察し、記録する。どこか懐かしい気がする、とうだいきっての遊び人の晩年の境地である。懐かしく、寂しく、切ない

その他のこと 2024年12月26日

旧友の店 芝「小田島」訪問

 最近、都内(江戸)散策に凝ろうとしている。夏は暑くて散歩に合わない。昔ほど冬が寒くない。12月から3月くらいが散歩にはちょうどいい気候なのではないか。

 昨日、芝ー芝公園ー増上寺ー東京タワーー日比谷公園ー皇居を歩いてきた。いわば表の東京だね。官庁街も行けばよかったのだが、爆弾を仕掛けたくなるのも無粋だと思い、あえて避けた。

 大学の友人に小田島正史がいる。仲間内では異質な存在であった。尖っていない、穏やか、落語、江戸文学、家は料亭、等々。仲間内は皆サラリーマンの子弟で教員になればいいや、民間は嫌だ、などと考えていた。はいつでもどこでも標準タイプという、ちょー詰まらない奴だったから、小田島のあり方が少し不思議で少し羨ましかった

 大学二年の時だと思う。彼の父親(割烹小田島のオーナー)が我々学生を招待してくれ、うまい魚と酒を振る舞ってくれた。ろくなものを食ったことのないガキは、刺身に焼き魚に手間のかかった割烹料理に、その価値もわからず、うまいうまいと食ったものだ。おじさんは、ニコニコしていた。

 卒業後小田島は実家を継ぐべく料理人としての修行を経て、父と並んで調理場に立った。各地に散った昔の仲間が、ぽつりぽつりと彼の家を訪ね、昔の話をして帰って行った。

 仲間の結婚式には必ずきてくれた。私の結婚式にも二次会にも足を運んでもらった。二次会では落語を披露してもらい大盛況であった。その後数年一緒にスキーへ行った。最後に会ったのは三十年くらい前、浅見慎也の結婚式だったと思う。年賀状の交換だけの付き合いになってしまった。が、いつも私の心に「割烹小田島」があった。

 で、検索したらすぐヒットした。便利な時代だ。地図アプリが道順まで教えてくれる。

 JR浜松町駅から八分。港区芝3丁目。すぐは慶應大学だ。周りには大きなビルが立ってしまった。が、店は四十年前のまま、何も変わっていない。変わったのは、親父さんもお袋さんも写真の中の思い出になったことくらい。小柄でキビキビ動く男が厨房で仕事をしていた。「小田島さん」と声をかけるとこちらへやってきた。「俺、わかる、菅原」「あら、どうしたの久しぶりだね」

 鯖定食をお願いする。ひっきりなしに客の出入りがある。なかなか繁盛している様子。夜は五時半から。「夜は少ないよ。クリスマスなんて誰も来やしねえ。昨日はお客さんとずっと呑んでいた」多少皺は増えたが、相変わらずの物腰、喋り。嬉しかった。鯖は油が乗っており、焼き加減も絶妙でうまかった。白菜の漬物(自家製)もいい漬け具合だった。美味かった。ありがとう。また来るは。今度は飲みに。じゃあ! ちなみに、増上寺のお賽銭とは違って、小田島は現金オンリーであった。何も変わっていない。そういえば、キャンディーズのスーちゃんのお葬式は増上寺だった。

 幸せな時間を過ごすことができた。

 東京タワーは、昔より小さくなった。日比谷公園内にあった「野音」はどこだ。端っこにひっそりと昔の面影のまま。今は、コンサート会場としては使われていないのかな? 1978年6月、ここでキャンディーズは泣き崩れながら解散宣言をした。その2年後に、彼女と原田真二のコンサートに来たこともある。若かった。楽しかった。夜、日比谷公園のベンチに座り、彼女とキスをして立ち上がったら、ベンチの後ろの覗き親父に「もう終わりか」と言われた。

 皇居はどこまでも広く、静かで、聖なる空気を醸していた。アジア系の外国人がたくさんいた。

創作について 2024年12月26日

島田雅彦『小説作法XYZ』読了

 島田の定義によると、前作ABCは学部・大学院レベルで、こちらXYZは本格派プロ仕様ということである。ABCn発表が2009年(筆者48歳)で本作が2022年(筆者61歳)。十三年もの時間が筆者をより深く大人誠実に、そして過激にさせた。当たり前と言えば当たり前なのだが、彼の文章は短く的確であり挑発的でもある。うまい。物事に対してとても深く思考している。大変素晴らしい作品である。もうすでに権威だし。

 しかし、小説作法で声高に創作とは何なのかと問うあり方は素敵だが、どうも彼の発表する小説にはあまり関心しない。昔からかなえいおっているのだが、大抵は期待外れの読後感で終わる。俺様の域に読者がついてこれないのだ、あっはっは。などと孤高を気取るのも負け惜しみくさくて悲しい。現代の坪内逍遥に過ぎないのか? 彼の創作については評価が分かれるところであろう。芥川賞に落ち続けていたこと、大江健三郎は島田の作品に対し、「彼は間違いなく才能があるが、…」みたいなコメントを残していた記憶がある。芥川賞の書評だったかな? まあ、先験的すぎて老人の選考員には理解できなかったという話もありうるが、同時代人の私も彼の編む創作の言葉には首を傾げるものがあった。

 やめよう。彼のもん書き四十年の成果である本作は間違いなく名著なのだから。そこから始めよう。

 

 前作ABCの目次は以下の通り。1 小説のジャンルとは 2 小説の構成法 3 小説で何を書くのか 4 語り手の設定 5 対話の技法 6 描写/速度/比喩 7 小説におけるトポロジー 8 小説ないを流れる時間 9 日本語で書くということ  まあ、小説創作初心者に向けてのABCといういあ「いろは」である。

 今回のXYZの目次は、1「私」の行方 2物語と形式 3言語と無意識 4様々な場所 5時間 6死、交換、宗教、である。いうならば言語獲得後の人類史とてもいうべき翼の大きさである。書き手が常にベースに持っておかなければならない、基本姿勢を網羅している。

 そして、彼は最後に語るのだ。

「今日の世界にキリスト教やイスラム教といった伝統的世界宗教とその変種、およびナショナリズム、資本主義、陰謀論、反知性主義、SDGs(持続可能な社会目標)といったものが実質的に宗教として機能し、人々を洗脳している。そんな中で哲学や文学は傍流に追いやられ、影響力は低迷しているように見えるが、確実にむすの個人宗教を生み出してきた。文字通り、社会規範と化した大きな宗教を「大説」とみなせば、文学はそれに対抗する異端的な「小説」であり、それ自体が宗教革命となるのである。今を生きる人類は宗教革命に加え、ルネッサンスを遂行し続ける必要がある。『小説作法XYZ』は単に小説の書き方の指南書であるにとどまらず、文芸復興の手引書でもある。」(頁247)

 「書く」行為は自由を得るためである。我々の心の自由を犯そうとする現実(政治・経済・戦争・陰謀)すべてが我々の敵である。正面切ってかかったら、2.26の将校のように権力から抹殺される。そうではなく、卑怯に姑息に裏側から彼らにアプローチするのが正しい。それが「文学」であり「哲学」であり、小説であるはずだ。

 文科省は指導要領の変更で高等学校の「現代文」を「論理国語」と「文学国語」にわけ、必修は「論理国語」のみとなった。それは何を意味するのか? つまり小説なんか読まなくてもいい。小説を読んで、自ら考える頭を持つ・物事の根幹にある人間の問題を熟考することの無いように、仕向けようとしている。最近の大学入試問題において、私学の問題はまず小説は出ない。全て評論である。また、共通テストに一部小説が残されているが、大抵は評論であり、それがまた膨大な分量である。

 文科省が求める人材は、多くの複雑な問題に対し深く考えることなく、サラッと全体を把握し、上からの命令に疑問を持たない人間である。みんな騙されちゃダメだ。自らの判断をしなきゃ。誰かにいつの間にか刷り込まれた、彼らにとって都合のいい人間になってはいけない。思う壺である。彼らを、微妙に交わしながら小さな王国を作らなければならない。

話がそれた。島田はリベラリストとして、我々を煽る。心の自由のためにやれることを考えろ!と。

読書について 2024年12月26日

夏目漱石『こころ』読了

 先日12月21日(土)に芥研がオンライで行われた。今回から、長谷川氏による。「こころ」論集が始まる。この研究は、現在某出版社から出版予定であるが、著者と編集集者側との折り合いがつかず、現在ペンディング状態にある。そこで、世に出る前に芥研で揉んでやろう、と、このシリーズに入ることになった。何回やるのか。3〜5回はいけるだろう。その後に、私の創作ということになるだろう。

 で、「こころ」を読んだ。いったい何回目だろう。十数回?二十数回? まあ、そのくらいか。発表されて今年で110年になる。近代文学の一つの到達点であり、その後の指針ともなった作品であり、高等学校教科書にも採用されており、ほとんどの高校生がたとえ一部にせよ読んだことがある作品である。新潮文庫の総売上トップ(ちなみに二位は太宰治「人間失格」)。ロングテイルで読み継がれるのは教科書再録の影響もあるだろうが、作品自体に古びない普遍的問題が隠されているから、ということになるのだろう。

 再読するたび、新しい気づきがある。昨年読んだときは作品内に散りばめられた二項に目が行った。昔ー現代 若者ー中年 男ー女 等々。キリがないほどさまざまな二項が散りばめられ作品世界の層の厚さとなる。

 今回は割とサラッとやったが、この作品世界の重奏性に改めて唸らされた。何度もよlということは、あまりに地層が厚いため、全てに神経が回らず、今回はこの地層に注目して読む、次回は別の層に意識がいく。という感じで読めるのではないか。そんなことを考えた。それも新聞連載である。連載終了後すぐ漱石自身が岩波と交渉し書籍化している。地震でキャッチコピーまで作って。漱石には珍しいことだ。相当この作品に入れ込んでいた、というか、書き終わった父にずっしりと手応えを感じたのであろう。

 漱石は、「こころ」で一つの到達点を迎えた。その後「道草」で自分の根源的問題を突き詰め、彼なりの本格小説『明暗』に挑むことになる。が、道半ばで命が尽きてしまう。

畑について 2024年12月7日

吉田太郎『シン・オーガニック』読了

 驚愕の名著である。

 私は、4畝ほどの家庭菜園をやっており、オーガニックに興味を持っている。しかし、つい敢行農法に日和ってしまう。どうすれば、農薬・化学肥料から脱却できるか? まずは土づくりだというあたりはなんとなくわかる。しかし、それは一体何を意味し、また、どうすればいのか、あまりよくわかっていない。何かの参考になればと本書に手を出した。十月の半ばである。それから約一月半、私にとっての主流の読書ではないため、常に二番手として頁は繰られることとなり、多くの時間がかかってしまった。しかし、理由はそれだけではない。あまりに優れた内容であるため、流して読むのは勿体無い、あるいは、それは罪である、という意識も働いていたように思う。

 本書は土と微生物の関係、あるいは微生物と根の関係を様々な実践や論文を通して、解説する啓蒙書である。が、筆者の射程は広い。ただ個人の農家が美味しい野菜を採取し楽しむ、だけでなく、地球規模、全人類規模、そして人間の在り方、といったあたりまで広く大きく包括的である。

 最初、地球の起源から解き起こし、炭素や窒素の成り立ちから始まったのには心底驚いた。随分、大変な書物を手にしてしまった、と思った。当然流れとして、微生物の発生→生物の発生→植物の発生と話は進む。まあ、準備編である。そして、世界中の研究論文や篤農家による実践を踏まえ、化学肥料と化学農薬の問題点を解き明かし、土中微生物の意義あるいは土中微生物と根の関係をゆっくり丁寧に学術的に説明してくれ、我々のもうを開いてくれるのである。

しかし、それだけではない。本書の思想は以下にある。

「知がプライベート化されるのが敢行農業、ちが個人に独り占めされず社会によって分かち合われて文化によって統合されるのが有機農業(頁35)」だと述べる。個人が自己の利益のため、知を独占するのではなく、知を解放し仲間として皆がよりよくなるように、進めていくべきだ、ということの意であろう。これは有機農法に限定される話ではない。今後の人類にぽける諸問題全般についてもいえるとである。まさにマルクスの思想に通じるものだ。資本主義的な発想から、次の階段へと歩むためのヒントになる。

 「国が有機農法を確立し、「我々の指導通りつくればできる」という枠組みで作られる農産物は有機だっても、なんか味気ない。農家も現場をみながらどうやって作物を作るかを考える「百姓」ではなく、単なる作業員ということになるからだ。(頁349)」

 中央集権的な押し付けではなく、個人が経験則で得た知を皆で共有しつつ、ボトムアップ的力の流れを目指す社会が、これからのあるべき姿である。人間がやりがいと喜びを持って働くことができるような仕事のあり方でなければならない。

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