銀座・新橋・浜離宮
今年最初の江戸散策は,銀座・新橋界隈です。
東京駅を八重洲口から銀座に向かうのですが,最初に目に入ったのがヤンマーのビルだったので,少し驚きました。
都会には完成がない。やはり,古いビルを壊し新しいビルを建てていました。
銀座の本通りを一丁目から八丁目まで歩きました。大きなスーツケースを押した外国人観光客がたくさんいます。欧州系もアジア系も満遍なくです。やはり銀座は日本一の高級繁華街なのでした。
新橋では,居酒屋一力でランチをいただきました。飛び込みでしたが,リーズナブルで上品な美味しい昼飯にありつけました。
新橋から歩いて10分程度で,浜離宮恩賜庭園に到着です。電通・朝日新聞などのどでかい高層ビルの中に,それは忽然として現れます。まったく陳腐な表現ですが,都会のオアシスです。その空間だけ,時間も空気も違います。
徳川将軍家の鷹狩り場だったそうで,広大な空間に江戸時代の空気が満載です。よくもまあ,こんな空間を残しておいてくれたものだ。放っておけば民間にすべて食い荒らさらていただろうな。こんな時だけ,公の存在に感謝します。
さっとネットで調べたところ,ここから浅草に行く船が気持ち良い,などの文言にあたり,船着場に向かいましたが,今日は運行しておらず残念。
それでも,暖かな日差しの元,重い上着を抱えて,園内を散策することはとても気持ちが良いものでした。
少し疲れたのでベンチに腰掛け空を見上げると,高層ビルとその合間にヘリコプターが。伸びをしようと木製のベンチに手を這わすと,指先にチクッと痛みが。見ると右手中指に木の破片が刺さっています。抜こうにも抜けず,小さな痛みを抱えながら,公園を後にしました。
心地いいばかりではなく,トゲも刺さった,小さな旅でした。
阪神淡路大震災30年
1995年1月17日未明,近畿地方に最大震度7の揺れが襲った。ビルや高速道路が倒壊し,下町は火の海になった。村山内閣の情報収集は遅く対応もてんでなっていなかった。
職場で授業の合間にテレビを見るのだが,これといった情報は入ってこない。
帰宅後,夜のニュースですようやく現地の映像が流れた。悲惨極まるものだった。阿鼻叫喚の,まさに地獄であった。
三宮のサウナには当時の街の様子や隣のビルにもたれかかっているこの施設の以前の姿がパネルになって展示されている。ちなみにここの水風呂は,通年11.7度である。
この悲惨な災害から唯一実りがあった事柄はボランティアである。日本中の意思あるものが集まり,数ヶ月にわたって瓦礫を撤去し,避難所で衣食住の手伝いをした。
ようやく日本でもシステマチックなボランティアシステムが動き出す機会となった。
同僚の吉田君は,正義感あふれる熱血漢であった。たまたまその年度の受け持ちが3年生だけだったので,卒業試験の処理を終えると,2週間の年休を取り,寝袋を持って神戸に飛んだ。
彼は,いくら君からすればバカみたいな働き者であった。仕事・部活等でほとんど休みを取らない。
職場が変わり,年賀状のやり取り程度の付き合いになった際,毎年葉書に書かれていることは,「記録を更新した,今年は300日学校にいた,320日仕事した,なんてことばり。」そんなやつだから,年休などいくらでもあるし,ボランティアのために取得するのは全く惜しくない様子であった。
帰郷後,いくら君に熱く熱く,関西の現状・ボランティアの状況,問題点を語った。
その時,彼は33歳。いくら君の一つ年下であった。
毎年,年賀状を交わし,互いに簡単な現状報告をした。急に電話がかかってきて,相模大野で飲んだこともあった。一番驚いたのは東京ドームのジャイアンツ戦に誘われたことだ。息子と行くはずだっだが、熱でも出したのか,行けなくなったので,いくら君,どうだい?って。
勿論誘いにのった。チケット代を払おうとしても,ガンとして受け取らない。オレンジのタオルを買って,息子さんの土産にといった渡した。至極,恐縮の程であった。
ある年,年賀状が来なかった。
一月の下旬に,奥さんから,彼が急死した旨の葉書が届いた。心臓だそうだ。
バカだなあ。
仕事しすぎて死ぬなんて。いくら君は吉田君を心の底から呪った。馬鹿野郎。死ぬなよ。
阪神淡路大震災の頃になると,吉田君を思い出す。
泣けて泣けてしょうがない。
馬鹿野郎。また,飲みたかったよ。
新宿「テルマー湯」
久しぶりの新規開拓,新宿「テルマー湯」に行ってきました。場所は花園神社の裏というか,ゴールデン街のそば,といえば,わかる人にはわかってもらえると思います。
まずは、ここへ辿り着く経緯から。
先月,師匠トーイちゃんと「品川サウナ」でトトノッタのち,大井町の「大阪王将」で昼飲みしたのですが,その時もらった餃子券の期限が1月いっぱいであることが判明。そこで,また「品川サウナ」に行かなければと,大井町10時に集合したものの,珍しくこの日は清掃の為,営業は13時から、との張り紙。
サクサクっと調べたら,新宿「テルマー湯」そばに「大阪王将」が存在することが判明し,さっそく攻めたというわけです。
美しい外装の4階建ての専用施設です。内装もお風呂も広くて綺麗でした。
サウナは,100度の標準タイプと59度のミストサウナの二つ。お風呂は炭酸泉をはじめ,いろいろあって充実しています。
まあ,悪くはないといった感じですが、コスパ的にはイマイチかな。
でも,場所的には日本最大級の歓楽街にあるわけで最高ですが。ゴールデン街を彷徨する癖のある方などには最高の施設かとも思われます。しかし、いくら君としては,さあ次も是非,とまではいかない,というのが正直なところです。
ちなみに,当然「大阪王将」で餃子をつまみに昼飲みし,トーイちゃんは小田急で,いくら君は相鉄乗り入れ線で帰宅したのでした。新宿から乗り換えなしで、希望が丘駅まで帰ることができます。まったくもって便利な時代になりました。
竹田青嗣『はじめてのフッサール『現象学の理念』』読了
今年初めの、哲学的取り組みは「現象学」とする。
まずは手始めに、竹田青嗣のフッサールから。
現象学の概念を把握するのは、いくら君にとって至難である。大昔からずっと気になっていた。そこで、少し手を出してみる。しかしよく理解できず討死する。そんなことの繰り返しであった。で、竹田氏の登場である。彼の哲学がの理解は幅も厚みもすごいものがある。昔は文芸評論家という肩書きであったが、今は哲学者というところなのだろうか。(柄谷行人が言うように、近代文学の大きな役割はもうすでに終わってしまったのだろう(『近代文学の終わり』)。よって、文芸評論は見向きもされない過去の遺物になってしまった。
閑話休題。
フッサールである。現象学である。
竹田氏による。古来哲学における問題は認識論であった。主観ー客観の一致は可能か、不可能か? 哲学者たちはその問題に取り組み、解決することができなかった。そこでフッサールはいう。「主観ー客観」図式を方法的に中止し(エポケー)、別の図式をとる、これを「現象学的還元」と言う。しかし、この図式がわからない。フッサールの言いようも、わかりにくい。そこで竹田青嗣の登場だ。
「現象学的還元」は、まず客観が存在するという「措定」、つまり前提を中止する。そして全てを自分の「意識体験」に「還元」する。すると、世界の存在の全ては、自
分の「意識」に生じている”表象”でる、と言うことになる。(21頁)
枠組みは、わかった、と言うことにしよう。しかし、わからない。竹田氏が丁寧に繰り返し説明してくれるにも関わらず、その論拠は雲を掴むような、あるいは砂上の建築物のような、あるいは蜃気楼を追いかけるような、作業となり、掴んでも掴んでも指先から逃げていく。
こんな状態で無謀とも思えるが、これ以降、原著『現象学の理念』に突入する。
川端康成「眠れる美女」読了
こりゃ、やばい。相当やばい。
〈川端康成〉。言わずと知れた、ノーベル賞作家である。美しい日本語の使い手であり、抒情的な物語の名人である。
本作も、美しい日本語で描かれた切ない物語だが、その奥に男の、老人の絶望的な悲しみがある。ああ、とうとう、いくら君もこの境地に近づきつつある、ということなのだ。
漱石も芥川も太宰も三島もみんな若くして死んだ。つまり老人文学が作品群に存在しない。老人の性を扱ったものとなると、寡聞にて谷崎くらいしか知らなかった(「瘋癲老人日記」「鍵」等々)。でも、川端のエロさは、谷崎の変態をうわまっているのではないか。変態が変態らしく行動するより、常人の奥に眠れる矯められた性の方が、それも不能になったのちの観念としての性の方が、エロいと思う。
67歳になる江口老人は、友人から教えられた館を頻繁に訪れる。そこは、すでに男としての機能を失った老人のための逸楽の館であった。真紅のビロードのカーテンの奥には、薬物で眠らされ、絶対に目を覚まさない美少女ーー彼女と老人は一晩添い寝をする。江口老人は眠れる美女と添い寝をしながら、自身と語り自身の過去と対話する(当たり前だが、寝ている人間と会話はできない。よって若さを当てられ自己省察するしかない)。若い肉体を目の当たりにするということは、いやがおうにも自らの醜い老いを突きつけられことになる。江口老人の若い娘に対する視線は執拗である。とうとうねちっこい。熟れすぎた果実酒の芳香で、我々読者は陶酔し、蠱惑的な死を予見する。まさにデカダン文学の真骨頂である。本当に驚いた。
もし、三島が生きていたら七〇歳くらいで老人の性を描いたかもしれないが、上述のように昔の文学者は若くして死んでおり、残っていないのが、残念だ。
現代ーー我々のたつ地平は、政治も経済も文学もみな表面の世界で席巻されてしまっている。リアルなものでなく作り物のツルツルな世界。裏側は禁止され闇に沈静しネットの中で蠢くしかない。
今、著名な作家はこういったタイプの作品を書かないだろう。テーマにないのではなく、社会的な忖度というか配慮から。もしかしたら、自分の名声が全て台無しにされる可能性があるから。
あるいは、やはり、川端のエロスと感受性と描写力が突出していたということなのかもしれないけれど。
2025目標
◎読書(カント『実践理性批判』を含む)
◎薩摩芋3倍増 ナス・オクラ十一月まで収穫 大玉トマト成功
◎100枚以上の小説、3本執筆。
◎JRA万馬券3本。
以上
内田樹『コモンの再生』読了
内田樹『コモンの再生』読了。
本作は、雑誌「GQ JAPAN」に連載されたエッセイをまとめたもの。
これらのエッセイの成り立ちであるが、編集者今尾氏と編集長鈴木氏が隔月神戸にあつ内田氏の自宅を訪れ、そこで今尾氏が提示した質問に対し、鈴木編集長と内田氏があーれもない、こーでもないと、議論したものを文字起こしし、編集しなおしたものだそうだ。一人で原稿用紙(キーボード)に向かって文章を作るのとは違って、自分自身想いもしなかったような意見が出てくるスリリングな楽しさがあるであろう。
たいていのお題は時事問題であり(「モリ・カケ問題」「東京オリンピック」「政治の劣化」「グローバリズム」「トランプ」等々)であり、発売が2020年なので、今読むと、若干古い気はする。
国民国家の衰退と今後の在り方予測がさまざまな切り口から語られるが、ベースにあるのはアンチ・グローバル主義がもたらす個人主義的な「〜ファースト」の内包する了見の狭さから脱却し、「周りの人たちを「同胞」と感じることができ、その人たちのためだったら、「身銭を切ってもいい」と思えるような、そういう手触りの温かい共同体」をどうやって立ち上げるか、がテーマであると思う。
原理主義的に極へ走れば、違う意見の人間を憎むことにしかならない。俺はこうだけど、そういうのも、アリだよね、的なゆるさが、これから求められる世界観になると思う。
永井荷風『濹東綺譚』読了
先日、漱石の「こゝろ」を読んだばかりだが、今回は荷風の「墨東綺譚」にチャレンジした。漱石は1867年生まれ。一方荷風は1979年生まれ。年の差、わずか12歳である。しかし、荷風は漱石よりずっと長生きをした。元々世捨て人的生活を好んだ男であったが、移り行く東京の下町を活写し、当時の風俗の一片を我々に知らせてくれる。「こゝろ」に出てくる地名に黄色のラインマーカーを、「墨東綺譚」のそれにはピンクのマーカーを記してみると、面白いほどはっきりと両者は交わらない。同じ東京でも全く、二人の目に見えていたものは違うものであったのだろう。
本作は、荷風57歳の作。麻布区(今の東京タワー側)に住む文筆業の「大江匡」は、陋巷の私娼窟である向島寺島町「玉の井」(今のスカイツリー側)の風情に興味を持ち足繁く通い、好奇の眼差しで観察記録する。小説内の時間は初夏(梅雨)から初秋(彼岸)までの三ヶ月間である。「わたくし」が玉ノ井を徘徊していると突然の驟雨にやられる。そこへ後ろから「檀那、そこまで入れて行ってよ」と声がかかる。年は24、25歳の「いい容貌」の女である。そして彼女の部屋へ通いながら老人の創作欲を刺激される。作中内作品として『失踪』という小説が挿入される。中学英語教師「種田淳平」は退職金を持って、妻や子から失踪し、若い女と一緒になる。そんな小説を構想しながら現実の自分の娼家通いから得られる興奮や発見をガソリンに『失踪』を構想する。
「わたし、借金を返しちまったら。あなた、おかみさんにしてくれない。」
「わたくし」大江は彼女から離れることを心に決め、足が遠のいていく。
譲治、抑制的な態度で街の時代の人間の変化を観察し、記録する。どこか懐かしい気がする、とうだいきっての遊び人の晩年の境地である。懐かしく、寂しく、切ない。
旧友の店 芝「小田島」訪問
最近、都内(江戸)散策に凝ろうとしている。夏は暑くて散歩に合わない。昔ほど冬が寒くない。12月から3月くらいが散歩にはちょうどいい気候なのではないか。
昨日、芝ー芝公園ー増上寺ー東京タワーー日比谷公園ー皇居を歩いてきた。いわば表の東京だね。官庁街も行けばよかったのだが、爆弾を仕掛けたくなるのも無粋だと思い、あえて避けた。
大学の友人に小田島正史がいる。仲間内では異質な存在であった。尖っていない、穏やか、落語、江戸文学、家は料亭、等々。仲間内は皆サラリーマンの子弟で教員になればいいや、民間は嫌だ、などと考えていた。私はいつでもどこでも標準タイプという、ちょー詰まらない奴だったから、小田島のあり方が少し不思議で少し羨ましかった。
大学二年の時だと思う。彼の父親(割烹小田島のオーナー)が我々学生を招待してくれ、うまい魚と酒を振る舞ってくれた。ろくなものを食ったことのないガキは、刺身に焼き魚に手間のかかった割烹料理に、その価値もわからず、うまいうまいと食ったものだ。おじさんは、ニコニコしていた。
卒業後小田島は実家を継ぐべく料理人としての修行を経て、父と並んで調理場に立った。各地に散った昔の仲間が、ぽつりぽつりと彼の家を訪ね、昔の話をして帰って行った。
仲間の結婚式には必ずきてくれた。私の結婚式にも二次会にも足を運んでもらった。二次会では落語を披露してもらい大盛況であった。その後数年一緒にスキーへ行った。最後に会ったのは三十年くらい前、浅見慎也の結婚式だったと思う。年賀状の交換だけの付き合いになってしまった。が、いつも私の心に「割烹小田島」があった。
で、検索したらすぐヒットした。便利な時代だ。地図アプリが道順まで教えてくれる。
JR浜松町駅から八分。港区芝3丁目。すぐ裏は慶應大学だ。周りには大きなビルが立ってしまった。が、店は四十年前のまま、何も変わっていない。変わったのは、親父さんもお袋さんも写真の中の思い出になったことくらい。小柄でキビキビ動く男が厨房で仕事をしていた。「小田島さん」と声をかけるとこちらへやってきた。「俺、わかる、菅原」「あら、どうしたの久しぶりだね」
鯖定食をお願いする。ひっきりなしに客の出入りがある。なかなか繁盛している様子。夜は五時半から。「夜は少ないよ。クリスマスなんて誰も来やしねえ。昨日はお客さんとずっと呑んでいた」多少皺は増えたが、相変わらずの物腰、喋り。嬉しかった。鯖は油が乗っており、焼き加減も絶妙でうまかった。白菜の漬物(自家製)もいい漬け具合だった。美味かった。ありがとう。また来るは。今度は飲みに。じゃあ! ちなみに、増上寺のお賽銭とは違って、小田島は現金オンリーであった。何も変わっていない。そういえば、キャンディーズのスーちゃんのお葬式は増上寺だった。
幸せな時間を過ごすことができた。
東京タワーは、昔より小さくなった。日比谷公園内にあった「野音」はどこだ。端っこにひっそりと昔の面影のまま。今は、コンサート会場としては使われていないのかな? 1978年6月、ここでキャンディーズは泣き崩れながら解散宣言をした。その2年後に、彼女と原田真二のコンサートに来たこともある。若かった。楽しかった。夜、日比谷公園のベンチに座り、彼女とキスをして立ち上がったら、ベンチの後ろの覗き親父に「もう終わりか」と言われた。
皇居はどこまでも広く、静かで、聖なる空気を醸していた。アジア系の外国人がたくさんいた。