フィリップ・ロス『プロット・アゲンスト・アメリカ』読了
読み始めは1月4日。読了は昨日22日。結構かかってしまった。
内田樹氏が推薦していたので手にした。1940年頃のアメリカを舞台にしたフィクション。
切手集めに情熱を注ぐフィリップ少年(七歳)を語り手に、そのユダヤ人家族の物語である。平穏な生活に歴史の波がヒタヒタと押し寄せる。なんと、ヒトラーの盟友である、あのリンドバーグがルーズベルトを破ってアメリカ合衆国の大統領になってしまう。少しずつ見えない波がユダヤ人家族であるフリップ一家を苦しめる。じわじわと差別が広がりユダヤ人たちは迫害されていく。家族の混乱と社会の混乱が絡みつくように展開していく。
いかにもアメリカ小説といった感じ。饒舌で細かな描写、そしてものものもの。
もしかしたら、あり得たかもしれない、アメリカ社会。
南九州旅
1月18日から二泊三日で宮崎に行ってきました。
義弟、忠君は母親妊娠八ヶ月で、この世に出てきてしまったため、生まれつき弱視です。聞くところによると、人間は生まれるにあたり網膜などの視神経系が最も遅く、最後に作られるようなのです。忠君は視神経完成途中に母体から離れてしまったため弱視というわけです。子供の頃から様々な苦労・辛酸を、生まれつきの才能と意地と根性で乗り越えてきた彼ですが、ここ数年で視力はさらに落ち、勤めていた会社も辞めてしまいました。今まで、両親と友達と一人で毎年のように宮崎にある、目の神社である「生目神社」にお参りしてきましたが、今年は我ら夫婦が彼のお礼参りに随行する栄誉に恵まれたという次第です。
車で成田空港産サンパーキングに乗り付け、手続き後第二ターミナルまで送ってもらいました。しかし安いツアー(飛行機往復・ホテル二泊・レンタカーで一人六万円)のため飛行機は往復ジェットスター、つまり、成田空港第三ターミナルなのです。かなりの距離を歩かなければなりません。目の不自由な宙君には申し訳なかった。
初日は宮崎駅そばのホテルに到着後、鳥料理屋で晩飯を済ませました。半身揚げが美味かった! 二日目はレンタカー(ヤリスクロス)でえびの高原へ向かいました。標高1200mにある高原地帯ですが天気にも恵まれ、宮崎・鹿児島の境に聳える、噴煙あげる神々しい山々を見ることができました。その後、霧島神社でお参りをし、桜島へ向かうことになりました。霧島市からも見える桜島ですが島の東側(垂水市)から地続きになっています。西側は鹿児島湾を挟んですぐ近くに鹿児島市内がよく見ることができます。ナビを湯之平展望所に設定し、島へ向かいました。展望所からは未だ噴煙あげる草も生えない岩場で囲まれた山と海を隔てた鹿児島市内がよく展望できました。うまく説明できないけれど、人間は展望がいい場所がどうやらとてつもなく好きなようです。見晴らしがいい、見通しがいい、ということは爽快感につながるようです。
いくら君がお土産屋を回ると、ななんと、「桜島大根の種」が売られているではありませんか?! いくら君の旅は、いつもそうだとは限りませんが、地元の食材を見ることと、地野菜の種をゲットするが一つの目的というか喜びであったりします。いくら君はこの風景と桜島大根の種入手ですでにご満悦です。忠君は彼の姉の方に手を置き足場の悪いところも階段も、文句一つ言わずに歩いてくれます。腹の中では、こいつら散々連れまわしやがってと、毒づいているかもしれませんが、そこは長年の付き合いということでご勘弁を。
帰りは元の道を戻り、垂水市から都城市を通って、宮崎市に向かいました。我々は昭和30年代から40年代に生まれた人間です。我らの小学生時代は「あしたのジョー」と「巨人の星」です。そして都城市といえば巨人軍二軍のキャンプ地。星飛雄馬と看護婦みなさんの恋物語の舞台になった場所でもあります。そこで三人は巨人の星の話題で盛り上がります。途中、内容が曖昧な点は、後部座席の妻がネット検索し補填してくれます。阿呆なおじさんとおばさんは尽きることなく飛雄馬の恋・ライバル・大リーグボール一号二号に関する逸話で大盛り上がりし、あっという間に宮崎市に帰ってきました。宮崎のバイバスを走行中にはジャイアンツのキャンプ地である球場脇を通り、改めて盛り上がります。ちなみに三人はベイスターズファンです。この日はホテルから二十分くらい歩いて鰻屋へ。鰻丼(並)を美味しくいただきました。
三日目、この日は、本来の目的である「生目神社」へお礼参りに行きました。昨年のお札をお返しし、祝詞をあげていただきました。本願叶ったのが10時少し前。レンタカー返却時刻が14時。まだまだ遊べます。昨日は山だったので、今日は海。海岸線を南下し、鵜戸神宮へ。そこから北上しがてら、サンメッセ日南(モアイ像が感動的)・青島神社へ。時間ギリギリでレンタカーを返し、15時45分発の成田行きへ乗って無事帰宅したのでした。帰りの高速は平日夕刻のため、渋滞を覚悟していたのですが、思いの外スムーズに流れ一時間半で希望が丘へ帰ってきました。
お疲れ様でした。ちゅちゃんありがとう。またどこかへ行こうね。
銀座・新橋・浜離宮
今年最初の江戸散策は,銀座・新橋界隈です。
東京駅を八重洲口から銀座に向かうのですが,最初に目に入ったのがヤンマーのビルだったので,少し驚きました。
都会には完成がない。やはり,古いビルを壊し新しいビルを建てていました。
銀座の本通りを一丁目から八丁目まで歩きました。大きなスーツケースを押した外国人観光客がたくさんいます。欧州系もアジア系も満遍なくです。やはり銀座は日本一の高級繁華街なのでした。
新橋では,居酒屋一力でランチをいただきました。飛び込みでしたが,リーズナブルで上品な美味しい昼飯にありつけました。
新橋から歩いて10分程度で,浜離宮恩賜庭園に到着です。電通・朝日新聞などのどでかい高層ビルの中に,それは忽然として現れます。まったく陳腐な表現ですが,都会のオアシスです。その空間だけ,時間も空気も違います。
徳川将軍家の鷹狩り場だったそうで,広大な空間に江戸時代の空気が満載です。よくもまあ,こんな空間を残しておいてくれたものだ。放っておけば民間にすべて食い荒らさらていただろうな。こんな時だけ,公の存在に感謝します。
さっとネットで調べたところ,ここから浅草に行く船が気持ち良い,などの文言にあたり,船着場に向かいましたが,今日は運行しておらず残念。
それでも,暖かな日差しの元,重い上着を抱えて,園内を散策することはとても気持ちが良いものでした。
少し疲れたのでベンチに腰掛け空を見上げると,高層ビルとその合間にヘリコプターが。伸びをしようと木製のベンチに手を這わすと,指先にチクッと痛みが。見ると右手中指に木の破片が刺さっています。抜こうにも抜けず,小さな痛みを抱えながら,公園を後にしました。
心地いいばかりではなく,トゲも刺さった,小さな旅でした。
阪神淡路大震災30年
1995年1月17日未明,近畿地方に最大震度7の揺れが襲った。ビルや高速道路が倒壊し,下町は火の海になった。村山内閣の情報収集は遅く対応もてんでなっていなかった。
職場で授業の合間にテレビを見るのだが,これといった情報は入ってこない。
帰宅後,夜のニュースですようやく現地の映像が流れた。悲惨極まるものだった。阿鼻叫喚の,まさに地獄であった。
三宮のサウナには当時の街の様子や隣のビルにもたれかかっているこの施設の以前の姿がパネルになって展示されている。ちなみにここの水風呂は,通年11.7度である。
この悲惨な災害から唯一実りがあった事柄はボランティアである。日本中の意思あるものが集まり,数ヶ月にわたって瓦礫を撤去し,避難所で衣食住の手伝いをした。
ようやく日本でもシステマチックなボランティアシステムが動き出す機会となった。
同僚の吉田君は,正義感あふれる熱血漢であった。たまたまその年度の受け持ちが3年生だけだったので,卒業試験の処理を終えると,2週間の年休を取り,寝袋を持って神戸に飛んだ。
彼は,いくら君からすればバカみたいな働き者であった。仕事・部活等でほとんど休みを取らない。
職場が変わり,年賀状のやり取り程度の付き合いになった際,毎年葉書に書かれていることは,「記録を更新した,今年は300日学校にいた,320日仕事した,なんてことばり。」そんなやつだから,年休などいくらでもあるし,ボランティアのために取得するのは全く惜しくない様子であった。
帰郷後,いくら君に熱く熱く,関西の現状・ボランティアの状況,問題点を語った。
その時,彼は33歳。いくら君の一つ年下であった。
毎年,年賀状を交わし,互いに簡単な現状報告をした。急に電話がかかってきて,相模大野で飲んだこともあった。一番驚いたのは東京ドームのジャイアンツ戦に誘われたことだ。息子と行くはずだっだが、熱でも出したのか,行けなくなったので,いくら君,どうだい?って。
勿論誘いにのった。チケット代を払おうとしても,ガンとして受け取らない。オレンジのタオルを買って,息子さんの土産にといった渡した。至極,恐縮の程であった。
ある年,年賀状が来なかった。
一月の下旬に,奥さんから,彼が急死した旨の葉書が届いた。心臓だそうだ。
バカだなあ。
仕事しすぎて死ぬなんて。いくら君は吉田君を心の底から呪った。馬鹿野郎。死ぬなよ。
阪神淡路大震災の頃になると,吉田君を思い出す。
泣けて泣けてしょうがない。
馬鹿野郎。また,飲みたかったよ。
新宿「テルマー湯」
久しぶりの新規開拓,新宿「テルマー湯」に行ってきました。場所は花園神社の裏というか,ゴールデン街のそば,といえば,わかる人にはわかってもらえると思います。
まずは、ここへ辿り着く経緯から。
先月,師匠トーイちゃんと「品川サウナ」でトトノッタのち,大井町の「大阪王将」で昼飲みしたのですが,その時もらった餃子券の期限が1月いっぱいであることが判明。そこで,また「品川サウナ」に行かなければと,大井町10時に集合したものの,珍しくこの日は清掃の為,営業は13時から、との張り紙。
サクサクっと調べたら,新宿「テルマー湯」そばに「大阪王将」が存在することが判明し,さっそく攻めたというわけです。
美しい外装の4階建ての専用施設です。内装もお風呂も広くて綺麗でした。
サウナは,100度の標準タイプと59度のミストサウナの二つ。お風呂は炭酸泉をはじめ,いろいろあって充実しています。
まあ,悪くはないといった感じですが、コスパ的にはイマイチかな。
でも,場所的には日本最大級の歓楽街にあるわけで最高ですが。ゴールデン街を彷徨する癖のある方などには最高の施設かとも思われます。しかし、いくら君としては,さあ次も是非,とまではいかない,というのが正直なところです。
ちなみに,当然「大阪王将」で餃子をつまみに昼飲みし,トーイちゃんは小田急で,いくら君は相鉄乗り入れ線で帰宅したのでした。新宿から乗り換えなしで、希望が丘駅まで帰ることができます。まったくもって便利な時代になりました。
竹田青嗣『はじめてのフッサール『現象学の理念』』読了
今年初めの、哲学的取り組みは「現象学」とする。
まずは手始めに、竹田青嗣のフッサールから。
現象学の概念を把握するのは、いくら君にとって至難である。大昔からずっと気になっていた。そこで、少し手を出してみる。しかしよく理解できず討死する。そんなことの繰り返しであった。で、竹田氏の登場である。彼の哲学がの理解は幅も厚みもすごいものがある。昔は文芸評論家という肩書きであったが、今は哲学者というところなのだろうか。(柄谷行人が言うように、近代文学の大きな役割はもうすでに終わってしまったのだろう(『近代文学の終わり』)。よって、文芸評論は見向きもされない過去の遺物になってしまった。
閑話休題。
フッサールである。現象学である。
竹田氏による。古来哲学における問題は認識論であった。主観ー客観の一致は可能か、不可能か? 哲学者たちはその問題に取り組み、解決することができなかった。そこでフッサールはいう。「主観ー客観」図式を方法的に中止し(エポケー)、別の図式をとる、これを「現象学的還元」と言う。しかし、この図式がわからない。フッサールの言いようも、わかりにくい。そこで竹田青嗣の登場だ。
「現象学的還元」は、まず客観が存在するという「措定」、つまり前提を中止する。そして全てを自分の「意識体験」に「還元」する。すると、世界の存在の全ては、自
分の「意識」に生じている”表象”でる、と言うことになる。(21頁)
枠組みは、わかった、と言うことにしよう。しかし、わからない。竹田氏が丁寧に繰り返し説明してくれるにも関わらず、その論拠は雲を掴むような、あるいは砂上の建築物のような、あるいは蜃気楼を追いかけるような、作業となり、掴んでも掴んでも指先から逃げていく。
こんな状態で無謀とも思えるが、これ以降、原著『現象学の理念』に突入する。
川端康成「眠れる美女」読了
こりゃ、やばい。相当やばい。
〈川端康成〉。言わずと知れた、ノーベル賞作家である。美しい日本語の使い手であり、抒情的な物語の名人である。
本作も、美しい日本語で描かれた切ない物語だが、その奥に男の、老人の絶望的な悲しみがある。ああ、とうとう、いくら君もこの境地に近づきつつある、ということなのだ。
漱石も芥川も太宰も三島もみんな若くして死んだ。つまり老人文学が作品群に存在しない。老人の性を扱ったものとなると、寡聞にて谷崎くらいしか知らなかった(「瘋癲老人日記」「鍵」等々)。でも、川端のエロさは、谷崎の変態をうわまっているのではないか。変態が変態らしく行動するより、常人の奥に眠れる矯められた性の方が、それも不能になったのちの観念としての性の方が、エロいと思う。
67歳になる江口老人は、友人から教えられた館を頻繁に訪れる。そこは、すでに男としての機能を失った老人のための逸楽の館であった。真紅のビロードのカーテンの奥には、薬物で眠らされ、絶対に目を覚まさない美少女ーー彼女と老人は一晩添い寝をする。江口老人は眠れる美女と添い寝をしながら、自身と語り自身の過去と対話する(当たり前だが、寝ている人間と会話はできない。よって若さを当てられ自己省察するしかない)。若い肉体を目の当たりにするということは、いやがおうにも自らの醜い老いを突きつけられことになる。江口老人の若い娘に対する視線は執拗である。とうとうねちっこい。熟れすぎた果実酒の芳香で、我々読者は陶酔し、蠱惑的な死を予見する。まさにデカダン文学の真骨頂である。本当に驚いた。
もし、三島が生きていたら七〇歳くらいで老人の性を描いたかもしれないが、上述のように昔の文学者は若くして死んでおり、残っていないのが、残念だ。
現代ーー我々のたつ地平は、政治も経済も文学もみな表面の世界で席巻されてしまっている。リアルなものでなく作り物のツルツルな世界。裏側は禁止され闇に沈静しネットの中で蠢くしかない。
今、著名な作家はこういったタイプの作品を書かないだろう。テーマにないのではなく、社会的な忖度というか配慮から。もしかしたら、自分の名声が全て台無しにされる可能性があるから。
あるいは、やはり、川端のエロスと感受性と描写力が突出していたということなのかもしれないけれど。
2025目標
◎読書(カント『実践理性批判』を含む)
◎薩摩芋3倍増 ナス・オクラ十一月まで収穫 大玉トマト成功
◎100枚以上の小説、3本執筆。
◎JRA万馬券3本。
以上
内田樹『コモンの再生』読了
内田樹『コモンの再生』読了。
本作は、雑誌「GQ JAPAN」に連載されたエッセイをまとめたもの。
これらのエッセイの成り立ちであるが、編集者今尾氏と編集長鈴木氏が隔月神戸にあつ内田氏の自宅を訪れ、そこで今尾氏が提示した質問に対し、鈴木編集長と内田氏があーれもない、こーでもないと、議論したものを文字起こしし、編集しなおしたものだそうだ。一人で原稿用紙(キーボード)に向かって文章を作るのとは違って、自分自身想いもしなかったような意見が出てくるスリリングな楽しさがあるであろう。
たいていのお題は時事問題であり(「モリ・カケ問題」「東京オリンピック」「政治の劣化」「グローバリズム」「トランプ」等々)であり、発売が2020年なので、今読むと、若干古い気はする。
国民国家の衰退と今後の在り方予測がさまざまな切り口から語られるが、ベースにあるのはアンチ・グローバル主義がもたらす個人主義的な「〜ファースト」の内包する了見の狭さから脱却し、「周りの人たちを「同胞」と感じることができ、その人たちのためだったら、「身銭を切ってもいい」と思えるような、そういう手触りの温かい共同体」をどうやって立ち上げるか、がテーマであると思う。
原理主義的に極へ走れば、違う意見の人間を憎むことにしかならない。俺はこうだけど、そういうのも、アリだよね、的なゆるさが、これから求められる世界観になると思う。