阪神淡路大震災30年
1995年1月17日未明,近畿地方に最大震度7の揺れが襲った。ビルや高速道路が倒壊し,下町は火の海になった。村山内閣の情報収集は遅く対応もてんでなっていなかった。
職場で授業の合間にテレビを見るのだが,これといった情報は入ってこない。
帰宅後,夜のニュースですようやく現地の映像が流れた。悲惨極まるものだった。阿鼻叫喚の,まさに地獄であった。
三宮のサウナには当時の街の様子や隣のビルにもたれかかっているこの施設の以前の姿がパネルになって展示されている。ちなみにここの水風呂は,通年11.7度である。
この悲惨な災害から唯一実りがあった事柄はボランティアである。日本中の意思あるものが集まり,数ヶ月にわたって瓦礫を撤去し,避難所で衣食住の手伝いをした。
ようやく日本でもシステマチックなボランティアシステムが動き出す機会となった。
同僚の吉田君は,正義感あふれる熱血漢であった。たまたまその年度の受け持ちが3年生だけだったので,卒業試験の処理を終えると,2週間の年休を取り,寝袋を持って神戸に飛んだ。
彼は,いくら君からすればバカみたいな働き者であった。仕事・部活等でほとんど休みを取らない。
職場が変わり,年賀状のやり取り程度の付き合いになった際,毎年葉書に書かれていることは,「記録を更新した,今年は300日学校にいた,320日仕事した,なんてことばり。」そんなやつだから,年休などいくらでもあるし,ボランティアのために取得するのは全く惜しくない様子であった。
帰郷後,いくら君に熱く熱く,関西の現状・ボランティアの状況,問題点を語った。
その時,彼は33歳。いくら君の一つ年下であった。
毎年,年賀状を交わし,互いに簡単な現状報告をした。急に電話がかかってきて,相模大野で飲んだこともあった。一番驚いたのは東京ドームのジャイアンツ戦に誘われたことだ。息子と行くはずだっだが、熱でも出したのか,行けなくなったので,いくら君,どうだい?って。
勿論誘いにのった。チケット代を払おうとしても,ガンとして受け取らない。オレンジのタオルを買って,息子さんの土産にといった渡した。至極,恐縮の程であった。
ある年,年賀状が来なかった。
一月の下旬に,奥さんから,彼が急死した旨の葉書が届いた。心臓だそうだ。
バカだなあ。
仕事しすぎて死ぬなんて。いくら君は吉田君を心の底から呪った。馬鹿野郎。死ぬなよ。
阪神淡路大震災の頃になると,吉田君を思い出す。
泣けて泣けてしょうがない。
馬鹿野郎。また,飲みたかったよ。