ちょっとした話し
お彼岸を過ぎたにも関わらず連日の猛暑続きで,相変わらず朝畑。
5時前に近くのコンビニでおにぎりを一個買っていく。その買い物はPayPayで。
先日,いつものように会計をしようと,スマホをタップするも,メンテナス中とかでPayPayが使えない。財布がない。現金がない。でもお腹はすいた。どうしよう。
レジで困っていた、バイトの小原くんが,お店的にはダメなんですが,と言いながら,自分の財布からお金を取り出し,クールに支払機に投入。朝は次金曜日に来てますから。
ヒー。ありがとう。きゃー,惚れた!
で,今朝,朝5時,封筒にお金と,一筆箋に感謝の言葉を認めたものを入れ,本日食べる分のおにぎりの会計後,この間はありがとう!助かったよ。と言いながら、封筒を滑らせ,ついでによかったら食べて!といって昨日収穫したサツマイモを渡す。
彼もニコニコして気持ちよく受け取ってくれた。変な話だが2人で照れていた。
ちゃんちゃん。
松永K三蔵『バリ山行』読了
第171回芥川龍之介賞受賞作。選評で島田雅彦が「登山の細部を丹念になぞったオーソドックスな「自然主義文学」をベタに書いてきたところが評価された」とあり,ここに島田のシニカルを感じた。要は彼流のレトリックです小馬鹿にしているな,と思ったわけだ。
そこで,興味を持ち頁を繰った。すでに「文藝春秋」を買っていたため,それで読み始めた。
しかし,読み進めるうちにあまりに,上手いし面白いので,筆者に敬意を払い単行本も購入。
小説は言葉による建築物であるから,物語の中では様々な二項が絡み合いながら,三次元空間を生み出す。本作の二項も様々なバリエーションを持つ。
建物の外装の修繕を専門とする「新田テック建装」社員でいる私は,内装リフォーム会社から転勤して二年(内と外)。内装時代は飲み会など仲間との関係を拒み,それが遠因となりリストラされたため,今の会社では比較的人間関係構築に余念がない。
社内登山部に誘われ,複数人で登山道をワイワイ言いながら登る登山に徐々にはまっていく「私」。と同時に単独行を行う「妻鹿さん」。
二台目社長と藤木常務との間に経営方針から亀裂が入り,藤木常務が去った後は会社は傾いていく。
仲間との付き合いを大切にする「私」(大人数で登山道を歩く登山イコール決められたルートからはみ出すことはない),独自の路線を行く孤高の妻鹿さん(単独で道なき道を行く)。
様々な項目が絡み合いながら物語は進む。
やはり真骨頂は,私と妻鹿さんによるバリ山行のシーンだ。とにかく筆者の描写力は秀逸である。上手い。特に山の中の滝や苔の描写は大変魅力的である。その美しい自然も筆者の筆にかかれば,暗く恐ろしいモノに反転する。
バリルートと決められたルート。妻鹿さんと私。必死に会社にしがみつこうと喘ぐ私と孤高の妻鹿さん。
とにかく二項が効果的に上手く絡み合いつつ,ここぞと力を入れた時の描写のうまさ。それによりリアリティを感じながら,グイグイこの小説世界に引き摺り込まれていく。
しかし、捻くれ者のいくら君はあまりに面白い本作を手にしながら,こう思うのだ。「こんなに上手く分かりやすく面白いのはいけない。ダメだやりすぎ」。
素直じゃないね。嫉妬かな。もう少しゴツゴツしたところが必要だ,などと文句の一つも言いたくなる,そんな完璧な芥川賞作品なのでした。
カント『純粋理性批判』(岩波文庫)読了
8月1日に始まった今回のクルーズは突然、本日(9/10)幕を閉じた。岩波文庫版で上・中・下、3巻の膨大な哲学書である上に、さらに難解ときている。本日は下巻の122頁から始まった。各巻およそ350頁ある。まだまだ、あと一週間はかかると思っていた。以前、ペラペラとめっくったところ、最後の方はかなりの量で「付録」であるため、もしかしたら4日で終わるか、くらいの構えであった。ところが、終わった。142頁で終わであったのだ。あとは「付録」であった。
思えばここ半年、読書の中心は、カントであった。4月に西研の「カント」を読み、5月に竹田青嗣のカント。ようやや8月1日より本丸である、カント『純粋理性批判』に取り掛かった。やはり内容が難解である、さらには文体が読みづらい。カント独特の言い回し、思考回路に慣れるのに、かなりの時間を費やした。よって、本書一つのチャプターごとに、ことごとく対応している竹田「完全読解」に戻り、再確認する過程を取らざるをえなかった。竹田版で理解を深める、あるいは確認する場合がほとんどであるが、竹田版に理解できないところを本丸を読むことによって理解できる、と言う場面も意外に多く、苦しくも楽しい40日であった。
『純粋理性批判』は、Ⅰ先験的現理論、Ⅱ先験的方法論からなる。Ⅰは緻密に人間の認識を分析し、概念を整理している。それは、まるで自然界に存在する昆虫を一つ一つ丁寧に標本化していく作業に似ている。彼の目的は先験的理想(最高存在者=神)は認識不可能であるという地点に我々を導くことにある。その道筋を、「感性論」「悟性論(カテゴリー)」「理性論(アンチノミー)」と論を進め、スコラ哲学で散々議論され、答えの出なかった問題に終止符を打つ。ただしカントの立場としては存在の証明ができないのであって、不在が証明されたということではない。
Ⅱにおいて語られるのは、その思弁的認識の問いを、実践的な関心へと置き換えることである。つまり、われわれは「何をなすべきか」と言う問いである。そこからカントに『実践理性批判』につながっていくようなのだ。実践=道徳=生き方。
神は存在するか?否か?数百年にわかって議論された問題に終止符を打ち、新たた認識論を打ち立てた本書は、近代哲学の始まりの書であり、その後「認識論」はヘーゲル・ニーチェ・フッサール・ハイデガーに続くと、竹田は「完全読解」の後書きに記す。
先は長い。まだまだである。もちろんゴールはない。死が私の読書の終わりである。まだまだ死ねないことにあたらめて気付かされる。
今後、どうしようか? 『実践理性批判』に突き進むか? あるいはたの道へ進むか? いずれにせよ、次回の芥研から、マルクス『資本論』に入る。まずはここからだ。
大変だが、楽しい。ありがたいことである。
今井むつみ『「何回説明しても伝わらない」はいなぜ起こるのか?』読了
相変わらずカントの最中。ようやく下巻に入る。先は見えてきた感じ。
「耽美派が老境に入りカント読む」 いくら
自虐であります。
さて,本作。次の作品のテーマは「言葉は伝わらない」であります。
で、本作を見つけカントの頭休めに目を通しました。確か,日経新聞に広告がなっていたのだと思います。ビジネス書です。だが,著者は今井むつみ氏!認知心理学,言語心理学の権威。言語に関しての書籍も多数ある。この一点で本書を読みました。
で,結果ですが,まあ、よかった。キレが悪い表現だなぁ。ターゲットが完全にビジネスマンである点に減点(普遍性にかける)。ただ認知学者として明確な問題を,実例を上げつつ,平易な分かりやすい言葉で書いてある点は◯。
要するに人間は,生まれた環境も身につけた確かの質量も全て違う。つまり知識の枠組み(スキーマ)が違う。例えば「ネコ」と聞いて、かわいいと思う人も,あの目がイヤだ、と思う人もいる。全ての人は全ての背景が違うから物事の捉え方が完全に一致することなどあり得ない。
だが,それを前提に考えればモノの見え方は変わってくるだろう。
それぞれの認知バイアスを意識しつつ,常にメタ認知し,他者を認める能力を磨くこと,これしかない!
反省する点はたくさんあります。
ありがとうございました。
千葉雅也『オーバーヒート』読了
相変わらず、カント『純粋理性批判』の最中。今,中巻半分くらい。まだまだ,ようやく「アンチノミー」に最下からあたり。核心部分だから,一句一句大事に読む。だから遅い。その遅さこそ胸を張るべき,と自分を慰める(励ます)。
さて,カントと並走するのは,千葉雅也『オーバーヒート』(短編「マジックミラー」(川端康成文学賞受賞))である。
「私小説の脱構築三部作」(本人のXより)第二弾。ここでの「僕」は京都にある大学の准教授。専門はドゥルーズ。独身。ゲイ(ネコきぼう)。
恋人の晴人とのアンニュイな先の見えない関係が、小説の大きな柱。だが,そこに大学での同僚。地元群馬の友達。行きつけのバー。そしてそこでのナイーブな人間関係。などなど,たわいもないがキリリとしまったエピソードが絡み合って,話は進む。「僕」は言葉に犯された存在。ベースにあるのはイライラした空気感。だからこそ粗雑な生に欲情する。SEXのシーンは乾いた文章で快感も不快感も読者に与えない。そこにあるのは靭帯解剖の描写。冷徹でクールな言葉だ。どうしてそんな芸当が可能なのか?それは筆者が書きながら,その世界を客観的な視線で常に確認しているからだろう。自分自身をモデルにしてはいるが,その描かれ方は冷徹だ。しかし,たまに韜晦して見せもする。そこまでが芸(ゲイ)なのだろう。ひとこと一言が注目される。意味ありげな表現で読者を釣っているわけではない。そんなに安っぽくない。言葉が比喩が解釈がすべて芸になっている。
読んでいて考えた。小説において,いや小説の言葉において,読者が頁を繰る,読者にページをくらせるエネルギーはどこから来るのか?どうやったらその緊張感を保てるのか?鮮度の高い言葉以外にはありえまい。
という意味において,千葉氏の言葉選びは熟考されている。勉強になる。あやかりたい。素晴らしい作品であった。
なんだかヤバイなー。千葉雅也信者になりつつある。
千葉雅也『デッドライン』読了
今現在、過去の流れから、カント『純粋理性批判』と格闘している。現在4分の1といったところか。あと1ヶ月はかかるであろう。これと並行して、意識して小説を読むことにした。そして、それが、千葉雅也の初小説『デッドライン』なのであった。
千葉雅也氏とは、2023年の新書大賞を獲得した名作『現代思想入門』が出会いである。かなり砕けた言い回しで、しかし、わかりやすく現代思想の流れとそれぞれの関係性、読み方、有益な参考書などが記してある。現代思想への導きとして、のちに辞書的に使うかもしれない。書籍を読めば筆者の略歴が目に入る。そして、他の著書も。で、氏は小説も書くと言うこと、そしてそれが芥川賞候補や野間文芸新人賞・川端康成文学賞、などを受賞していることを知る。さらにゲイであることも。俄然興味が湧く。これは読まなきゃならん!
で、本作である。
2001年内部進学で大学院に進んだ「僕」の専門は現代フランス哲学。映画制作の手伝いをし、親友と深夜ドライブに行き、発展場で行きずりの出会いを楽しむ。論文執筆がいよいよ始まる。ドルーズ=ガタリ『千のプラトー』である。「動物への生成変化」。自由になる。それは動物になること。最初は順調に進むが、第二章で「僕」は躓いてしまう。全く書けない。時間だけが刻まれる。「デッドライン」は近づく。執筆できない苦悩から修士論文指導者「徳永先生」に「僕」は相談へ行く。そこでゲラに目をとした先生は、次の引用を指摘する。
ところが、まず最初に身体を盗まれるのは少女なのである。そんなにお行儀が悪いのは困ります。あなたはもう子供じゃないのよ。出来損ないの男の子じゃないのよ……。最初に生成変化を盗まれ、一つの歴史や前史を押し付けられるのは少女なのだ。次は少年の番なのだが、少年は少女の霊を見せつけられ、欲望の対象としての少女を割り当てられることによって、少女とは正反対の有機体と、支配的な歴史を押し付けられる。
そして先生は言う。「少女の尻尾を探すんです」
「僕」は事故のセクシャリティーが拒み拒まれていることに、自負と存在意義を持とうとしている。自分の欲望は男性に向けられるも、自分は少女になりたい一方で、男性にもなりたいと思考する。「僕」の中で、ドゥルーズが真の意味で結実する前に、一時的に方向を見失っている模様だ。まるで、芋虫が蝶になる経過段階としてサナギのように。
「僕」は書けない。「デッドライン」は超えてしまった。結局修士論文は提出されない。と同時に父の会社が不当たりを出す。突然、あらゆる不安の中に落とし込まれる「僕」であるが、そこに光明を差し伸べたのは母であった。「どうにするから、やりなさい」。僕は引っ越し、車を処分し、服を捨て、本を処分する。身の賭けにあったサイズになる。そこで終わる。「少女のっ尻尾」とは何か? 掴めたのか? いつの日か掴めるのか? 宙ぶらりんである。小説は全てを解決する必要はない。これは作者が我々読者に与えた課題なのだ。「さあ、この先はあなたが主人公です。この問題を引き受けてこい続けてください」と。
さまざまな魅力的なシーンが満載である。親友「K」。知子。先生。そこで提示される哲学的なエピソード。また、逆張りとしてのダンサー志望の「純ぺい」。細かや煌びやかなエピソードにまぶされながら「僕」の生は前に進む。新しい青春小説の世界が開示されたのだ。
ちなみに、本作は芥川龍之介賞に届かなかった。つまり、最終選考で落とされた。芥川賞の意味は優れた新人を発掘し世に出すことであろう。とすると千葉市はもうすでに哲学の世界で、あるいは学級の世界では実績を残し、そこそこの有名人でもある。東京大学で博士号をとっているそ、パリに2年ほど留学している。サバチカルでアメリカ生活もしている。のちに優れた作品の残す流行作家が芥川賞を取れないという現象は昔からある。太宰治、村上春樹、島田雅彦?等々。選考委員は言葉が達者な人たちであるから、落選の理由はいくらでも捏造できる。文体がどうの、構成がどうの。でも、嫉妬なのではないか?
最近「いくら君」は千葉雅也ブームである。彼の表現・彼の思想にもっと深く陥入したい。そんな欲望を抱かせる作家の発見であった。
久しぶりの新規開拓
久しぶりの新規開拓。渋谷駅徒歩5分の「サウナス」に行ってきました。新規開拓は2月の「東京サウナ」以来です。
今回もサ友「トーイちゃん」の提案により実行されました。
現地集合!場所は渋谷!
大学生の前半2年間はほぼ毎日通過した駅である。昔は,東横改札を出て,正面の銀座線を横目に井の頭線へ。
また,見渡せば,あららは道玄坂,あちらは國學院に行く方,そちらは代々木公園に向かう道,などと,一応把握していました。
で待ち合わせの10分前には東横渋谷駅にいたのですが,なんせ地下5階。外に出ればなんとかなるだろう!の期待虚しく,見たことも聴いたこともないオシャレなビル群に圧倒される。自分が持っていた昔の知識がまったく役に立たない。地図アプリを見ながら20分もかけてようやく到着。ああ,知識の上書きをしていかないと,対応していけなくなる。😭
外見は,ラブホみたい。ちょっと高級なやつね。
こちらの施設,訪問の際躊躇した点があった。それは湯船がないこと。で,まぁ,話の種に行くことに。
マンガ「サ道」作者であり,「サウナ大使」でもある,タナカカツキ氏プロデュースという点に期待を持っていました。
で,結論から言うと『サイコー』でした!
ビル一つが全てサウナ施設です。ここには9つのサウナがあるという。サウナ空間は「WOODS」と「LAMPS」,日々男女を交代しているという。我々が昨日入ったところは「WOODS」でした。フィンランドの森をイメージした空間であり,居心地がとてもいい。
受付を通り,階段を登って2階がサウナ入口となる。ロッカー室は小さい。汗だくのTシャツを脱ぎ捨ていざ入室。
お清めはシャワーで。目の前に水風呂が鎮座。ここには大きめのメディテーションサウナと横たわるサウナ。階段を上り三階へ行くと,そこはまさにファンランドの森の中。音・光・風にさらにはケロサウナと広めのサウナ。水風呂は深水1.5mの深さ。そこに皆さんが思い思いの格好で休んでいる。
その自由な感じの理由がしばらくしてから理解される。ととのい椅子が整然と一方向を向いて並んでいる,なんてことはないのだ。皆んな好きなところに好き勝手に座ったり横たわったりしている。
環境音楽が流れ,抑制された太陽が静かに溢れ,皆思い思いな形で今の時間を堪能している。
素晴らしい。
よくできた施設でした。さすがタナカカツキ総合プロデュース!
また行きたい。次は偶数日に。
斎藤環『生き延びるためのラカン』読了
先日、久しぶりに「電車に乗って」「都会」へ行った。何となく、TSUTAYAに入りなんとなく本棚を眺めていたら、本作と目があった。手に取り、購入即決した。ラカン? 精神分析? 医者?斉藤? 茂吉とか北杜夫の末裔? 調べても書いていない? どうなんだろう?
カント『純粋理性批判』に取り組むはずであった。前項で自己を鼓舞すべくそう書いた。でも、あらあらまた脇道に逸れている。まあ、いいか。
タイトルに「生き延びるための」なんて文言があるし、帯には「ストーカー、リストカット、ひきこもり、PTSD、オタクと腐女子、フェティシズム……「現代の社会は、何だかラカンの言ったことが、それこそ下手な感じで現実になってきている気がしている」。と本書からの抜書きがある。現代日本の若本に特有な現象をラカンの理論を通して解説してくれる本なのかしら。ではまあ、読んでみましょうか? カントに突入する怖さからの一時的逃避所として逃げ込んでみました。
でも、内容は、まあ、文体はかなりポップに耳障りよく書かれている。でいながら、ベタついた媚びが感じられないのは、著者が真面目な学究の徒であるからなのか? 面白かったです。よくわからない部分はやはりあるけれど(筆者が言うほどわかりやすく書けているとは思えない)、でもフロイトーラカンの流れはわかったような気がする。特に「言葉」ー「欲望」の関係性などは愁眉。しかし、このままでは「シニフィアン」の話はよくわからないのではないかな? なぜ対概念である「シニフィエ」について言及しないの? あまりソシュールに埋没しても、方向をも失うと判断したから? いずれにせよ、人間の「こころ」の不可思議性を理解すること、要するに「よくわからないのである」と言うことはよくわかった。エディプス・去勢などの精神分析の基本ワードの解説は役に立ちました。
さあ、カントに行かなければ。
斉藤哲也『哲学史入門Ⅲ』読了
とうとう最終Ⅲ読了。聞き書き哲学史、現代編。
Ⅲの射程。
1現象学(谷徹)フッサール・ハイデガー・メルロ=ポンティ・サルトル
2分析哲学(飯田隆)フレーゲ・ラッセル・ウィトゲンシュタイン
3近代批判と社会哲学(清家竜介)マルクス・ホルクハイマー・ベンヤミン
4フランス現代思想(宮崎裕助)構造主義ーポスト構造主義 フーコー・ドゥルーズ・デリダ
終章「修行の場」哲学史(國分功一郎)カント先生の言葉から
こうやって、改めて目次を拾い直してみて感じること。あまり自分の体に入っていない、実になっていない、ということ。フッサールの「現象学還元」とは「意識の外に物が実在しているという思い込みを一旦差し止めて、関心を意識の場面に引き戻すことを言う。意識という場面で起きている現象を、一切の先入観なしに記述分析すること」とある。理屈はわかる。文字の意味はわかる。でも体にストンと落ちた感覚は全くない。今までずっともそうなのだが、情けない話、「現象学」という言葉がどうしても自分の中で落ち着かない。わかった気になれないのだ。勉強不足なのか? センスの問題なのか? いずれにせよ。一時「身体論」が流行し何冊か読んだが、これはしっくりときたのだが。いかんなあ。
こういった通史の役割は出会いなのだと思う。いくら解説書を読んだとしても、著者のフィルターがかかるため正確ではない。だからといって何の予備知識もなしに原書に取り組むのも難しい。やはりある程度の武器を装備しなければならぬ。その自分が取り組むべき事前準備と装備を手にし、冒険に出発する決意を促すのが、この手の本の役割なのだろう。この手の本を読んでよしとしてはならぬ。というかそれはあまり意味があることとは言えない。ここを手がかりに、どこの山を登るのか? それを決めるのだ。もちろんストックや登山靴、食料は大切だ。場合によれば自身の命を守るためヘルメットやアイゼン・ピッケルも必要になるかもしれない。しかし、いくら富士山はこんな山である!とガイドブックをみても仕方がない。自身の足で登らなくては。行動せよ!「いくら君」! 確かに早くはないが、遅すぎるということもないだろう。
最終章で國分さんがカント先生を引きながら語る。「修行」であると。そう、知の修行。
カント『純粋理性批判』取り組むことにした。