ニーチェ『善悪の彼岸』読了
とうとう、ニーチェに入った。
昔から、気になっていた哲学者である。ツァラつストラに挫折して以来、数十年ぶりの再挑戦となる。
色々西洋哲学を学んできて、どうしてもニーチェは避けられない。挑まなければならない。調べると多くの評論家は最大の傑作は「ツァラつストラかく語りき」であるが、いきなりは難しく、まず「善悪の彼岸」と「道徳の系譜」を押さえて後、「ツァラツストラ」に挑むのが良い、とのことであり、今回『善悪の彼岸』(木場深定訳 岩波文庫)にチャレンジしたという次第であります。本作は全体、断章といった感じの比較的短い文章から成り立っており、一つの大きな論理構造としての伽藍を目指したもの(カントをイメージしている)というより、エッセイ風の断章を積み重ねているというものである。
ニーチェによって現代哲学が始まるといっても過言ではあるまい。西洋哲学はソクラテス・プラトン・アリストテレスなどのギリシア哲学に源流を持つが、その後世界を席巻したキリスト教と切っても切れない間柄にあるといえよう。中世の黒い圧の下から、ルネサンス・近代科学・デカルト・カントを通じて少しずつキリスト教の精神的支配から逃れようとした歴史があるが、それからの呪縛を徹底的に破壊したのがニーチェであるといっても過言ではないだろう。
まあ、とにかくディスるディスる。キリスト教という毒を、民主主義社会を権威を意外を。いずれも既成の秩序を破壊することに努めたのが彼の恐ろしいまでの執念なのである。
「善悪の彼岸」。つまり、善や悪と言われ人心を制御しているものの彼岸つまりあちら側、というのがタイトルの意味である。全体、アフォリズム的断章でそれまでの既成概念を権力者を次から次へと薙ぎ倒していくのだ。その根拠は類稀なる知性に裏付けられている。
読んでいる最中に書店の納品書に気づいた。それによると本書購入は平成2年七月とある。35年前? やはり本は偉大である。命が長い。
霜田2
先週に引き続き、霜田くんとの話。
LINEであれこれやりとりをしながら、ひょんなことで、相模大野で開催されるオープンマイクに参加することになりました。オープンマイクとは「ライブハウスなどの店舗で、誰でも演奏や朗読、コントなどを披露できるイベント」(GoogleAI)とあリます。「いくら君」はただ拝聴するのみですが。ここでのルールは、楽器の演奏インスト縛り、とのこと。場所は相模大野「アコパ」。到着順に記名。それが演奏順となる。霜田くんは主催者志賀さんとユニットを組んでおり、ピンでもデュオでも素敵な演奏を聞かせてくれました。他の方々も、ギターあり他の楽器ありでバラエティに富んだ演奏を楽しんでいました。いやあ、ものすごくアットホームなライブでした。すごくうまい人から、かなりうまい人、あるいはそれほどでもない人までさまざまの参加者がいるわけですが、とにかく空気が暖かい。誰しもただただひたすら音楽を愛するおじさんたちで、優しさと、何かを掴んで帰ろう、という貪欲さに溢れた眼差しでいっぱいでした。
後半は、流離のギタリスト「プー吉」さんのライブでした。素晴らしいギタリストでした。感動しました。最初は有名な曲でつかみはオッケー。楽しいトークを挟んでオリジナルの演奏です。ギター一本担いで世界を股にかける楽しいMCにまじりなぜか宇宙の話、アインシュタインの話も。相当レベルが高い! 霜田くんが「これこれ」と「プー吉」さんの紹介をスマホ画面で見せてくれ、「いくら君」はひっくり返ったのでした。東大大学院で宇宙物理学の研究者からアコギインストの演奏者に転身という華々しい?経歴の持ち主、だって!!。ああ、音楽も数学に近しいところがあるから感性と知性の結合により、これらのリリカルでありながら論理的な音楽が生み出されるのだろう、などと考え、別の感動を得たのでした。
ここにいる音楽大好きおじさんたちは、音楽を愛する素晴らしい演奏家なのですが、「いくら君」同様、安全なサラリーマン生活から確実な収入を得た上での音楽家であるわけです。ところが、プー吉さんは違う。賭けているもの、というか、捨てているものというか、投げ出しているものというか、とにかく、気合が違うわけです。彼の経歴からいけば、経済的に恵まれた人生を送ることも可能だったはずです。しかし彼は、そういった世俗的な安心をとらず、ギーター道追究を選んだ。親からの圧も凄まじかったでしょうし、彼自身がこの道で生きていく確信ができるまで、並大抵ではない葛藤があったことでしょう。しかし今は揺らぎのない自信を持って渡り鳥生活をされている。すごい。「プー吉」さんのギャラは「投げ銭」制。これやあ、ちょっとはずまないといかん。我々が安全なサラリーマン(それはそれで大変だし、サラリーマンを否定するつもりは毛頭ありません)をすることで失った何かを、命懸けの渡り鳥に回復させてもらうわけだから、弾まないとね。玉はないな。紙も最低複数入れなきゃな。
ライブハウスの代金はは飲み物代のみ。「いくら君」はビールとホッピー黒と芋焼酎お湯割りで2300円のお会計でした。
あー、楽しかった。たまには外に出て音楽を聴くのもいいなあ。霜田君ありがとう!
お別れの際、霜田君はもとより志賀さん、ライブハウスのオーナーからも次は演奏せよとのプレッシャーを受けつつ、「いくら君」は、ほうほうの体で逃げ帰ったのでした。もうギターなんか弾けないよ、と思いつつ、帰りの小田急線内でギター弦とチューニングマシンをポチっている「いくら君」がいました。
ミシェル・ウェルベック『服従』読了
先日、読了した『プロット・アゲンスト・アメリカ』は、1940年アメリカでナチスを信奉するリンドバーグがルーズベルトを破り合衆国大統領になった結果、合衆国ユダヤ人が迫害されていく、という物語であったが、今回は、2022年フランスにおいてイスラーム政権が樹立する物語である。
主人公フランソワは45歳の独身の大学教授である。19世紀末に活躍したデカダン作家「ユイスマンス」の研究者で現在パリ第三大学で教鞭をとる。恋人は22歳のフェラチオ上手なユダヤ人「ミリアム」と微妙な恋愛関係を持っている。
2022年フランス大統領選挙の決選投票でイスラーム政権が樹立する。ミリアム家族はユダヤ人迫害を恐れイスラエルに帰国する。フランソワは面倒に巻き込まれることを恐れパリを離れ地方都市「マルテル」に一月滞在し、ほとぼりが覚めた頃にパリへ帰る。大学から頓首の通知と年金の手続き書類が入った通知をポストに見つける。イスラーム大学はイスラム教徒の男性でなければ教授職につけない。サウジアラビアの潤沢なオイルマネーにより、フランソワは多額の年金を保証される。政権が面倒を回避するため豊かな年金を約束したのだ。生活だけは保証されたフランソワは特に何もせず過ごすが、恋人のマルテルとも別れ、仕事も失ったフランソワは、心のバランスを崩し、緩慢なる死を覚悟する。そんなとき、大学学長であり、新政権のもとで外務大臣に指名された「ルディシュ」の生活を垣間見る機会に恵まれる。イスラム教徒であるルディッシュは四十代の妻と十五歳の妻をもち生活を謳歌し、次のように語る。
「『O嬢の物語』の物語にあるのは、服従です。人間の絶対的な幸福が服従にある」。そして続けて「人類の頂点にあったヨーロッパは、この何十年間で完全に自殺してしまった」、つまりキリスト教が支配する世界では、さまざまな退廃が進み、世界は死を迎えている。それを救うことができるのはコーランのみである」と。
フランソワはイスラム教に改宗することを決意し、大学に戻ることと、一夫多妻を求め、自身の研究者としての誠実をすて、心の安定と将来への安心を得ることを決意する。
インテリの脆弱さ。
面白かった。ディテイルが書き込まれていて妙なリアリティーがある。民主主義・資本主義・人権等々は、一部ではあろうが、相当疲弊している。トランプもアメリカには男と女しかいないと宣言し、LGBTQを退廃と捉え攻撃を始めている。あるところでは確かに強烈な人権意識に違和感を感じている一定の層があるのは確かなのだろう。そして、本作が多くの読書を獲得したことの意味は、制度疲労を起こしている人間主義にノーを突きつける物語が、ある種のリアリティーを持って受け入れられている査証でもあろう。
伊藤裕『老化負債』読了
陽水が「人生が二度あれば」で歌っている。
父は 今年二月で 64 顔の皺は増えていくばかり
仕事に追われ この頃やっと ゆとりができた
ふと気づけば、六十四歳。子供に年老いた親として認識される年齢になったのだ。
いくら君の場合五十八歳で一気に落ちた。フルマラソンも3000メートルもこの年で終わった。老いとは何か。あるいは、老いとうまく付き合う方法は、コツは? 意識せずともそんなことを、いつの間にから考えているような年齢なのだ。
さて、本書。筆者は、老いを「負債」として捉えることで、わかりやすい概念にしてくれた。
帯より。「老化はからだに溜まる負債(=借金)。だから、返済さえすれば、若くなる! 44歳と60歳が、大きな節目。
DNAが損傷すると、もとに戻るよう修復するが、完全にもとに戻らない場合がある。コンピュータのバグのようなもの。それが増える=負債が増える=老化ということになる。それはひがべての細胞において起こる。そのバグの堆積を減らすことが老化を遅らせることになる。「食事」「筋トレ」「マインドフルネス」がホルモンの変化によるバグを防ぐ手段となる。甘やかせてばかりではいけない。少しのリスクをとる。例えば筋肉は強い負荷をかけると筋繊維がダメージを受ける。修復しようとする力が働くと以前より筋繊維が増える。つまり、少し負荷をかけてやることが、バグの堆積を減らす=老化を遅らせる、ことにつながるのだ。
椎名誠の文章を思い出した。昔、椎名が若かった頃8000メートルを山を登っていた。6000以降高山病に悩まされる。気持ち悪い、頭がいたい。では彼らは、高山病をどうやって克服したか。さすが乱暴な奴らだ。頭が痛くても気持ち悪くても、とにかく今の場所から少しでも高く登る、そして、降りてくる。すると、今よりすごく辛い思いをするから、今が耐えられるようになる、という理屈だ。まあ、よいこの皆さんは命に関わることなのでおすすめはしたしませんが、理屈はわかる。壊れない程度に強い刺激を与えれば、それに慣れる。精神が崩壊しない程度に辛い思いをすれば、そのことが次回は楽になる。少し無理して頑張ると、次回からそれはさほど辛くなくなる。脱線ついでに、今年からドジャーズに移籍する、佐々木ろうき。彼は、物凄い才能に恵まれたピッチャーであルガ、将来のことを考えて、いつも、常に無理をしなかった。県大会での決勝しかり、ロッテ時代の投球回数制限然り。しかし、昨シーズン、本人も理由が分からず、投げる球のスピードが数キロ落ちたという。つまりは、そういうことなのではないか?
閑話休題。
我々がなすべき将来に向けた「投資」とは? それは「まだまだ資金力が残されている間に、すなわちミトコンドリアが疲弊し切らないうちに、お金(生きるためのエネルギー)を使ってミトコンドリアを鍛えて、その力を強くしようとする行為だ」と。若い時の少しの無理=鍛える。そして老いたときの「労」。ねぎらい いたわる こと。逸脱せず、いいルーティーンを守りながらうまく外れるを楽しむこと。いいストレスとは「心地よい驚き」日常の中の非日常。これが味噌。ちょっとした刺激がホルモンを活性化させる。化学的な処理をされていない食材で作った美味しいものを食べ、歩いて、筋トレして、小説を読んで、映画をみて、音楽を聴いて、ちょっとエッチな動画を観る! これが健康の秘訣、ということ。
ぼんやりわかっているようなことでも、しっかりとした資料を提示された上で言語化されると、大きな力になる。
霜田
小学校低学年の頃は、ぼんやりした子供だった。小学校5年生くらいから、何やら生きづらさを感じ始めた。中学時代は決定的に不愉快だった。自身のコンプレックス、他者との比較から生じる絶望感。学校という堅牢な組織は私の目の前に高く聳えた。さまざまな縄が私を縛り、私の自由を奪った。何もかも不愉快だった。勉強も友人も恋愛も成長や性も、自らのコントロール下になく、暴走気味で呪わしかった。
冴えない成績で、凡庸な新設高校へ進学した。通知表の数字で輪切りにされた学校生活は、当初こそ不快であったが、じきにに慣れ、心地よい場所に変わった。中でも私の一番心地よい場所は部活動だった。ギターを弾いて音楽を作った。最初は誰も知り合いがおらず、一人でギターをかき鳴らしていたが、次第に話す友人も増え、演奏における情報を交換したり、好きな音楽について語り合ったりした。数人の仲間ができた。その中の一人が霜田だ。彼は、私には眩しいほど音楽の才能に恵まれた男であった。ギターも上手いし、譜面も読めるし、なんだったら自分で描ける。彼からさまざまなことを学んだ。我儘で他人とうまくやっていけない私に、なぜか霜田はさまざまな支援をしてくれた。合奏の楽しさ、ハーモニーの心地よさを教えてくれた。もちろん、音楽のことばかりでなく、思春期の小僧がぶち当たる問題もゲラゲラ笑いながら話して苦悩など吹き飛ばした。
しかし、彼は優しい性格で人気者だった。私以外にもたくさんの友人がいた。私は、自分が一番でないことが寂しかった。でも、霜田はめちゃくちゃいい奴だから友人がいっぱいいる、私はその中の一人に過ぎないけれど、それは仕方がないことなのだ、と自分を宥めた。私はたいそうな面倒な人間のようで、一人が好きなくせに、常に誰かにかまってもらいたいという癖がある。孤独好きの甘えん坊。向こうから来られると、サッと引くくせに、自分からは迫りたい。矛盾の塊。自分でも持て余すくらい面倒なやつ。
大学生の頃、あるいは結婚したばかりの時、何回か、会って呑んだ。しかし、それから三〇年以上途切れていた。霜田は律儀なやつで、ずっと年賀状をくれた。私も霜田との細い線を切りたくなかったから、年賀状を出した。一行二行の現状報告を乗せて。
数年前、ライブをする彼の姿が印刷された賀状が届いた。ああ、彼は、やはり、いまでもギターをやっている。何か遠い世界のことのようだった。その頃、私は仕事上の大きな試練に中にあって大層苦しんでいた。職場へ行くのが嫌で嫌で仕方がなかった。それでも定年後もどうにか再任用を勤めたが、もう限界だと二年で辞めた。敗北感のようなものが自分の心を蝕まないように注意を払った。うまく行く場合もあったが、そうでない時の方が多かった。仕事も辛いし、仕事を辞めても辛い。全く厄介だ。
今年の年賀状に連絡くださいと一言あったので、メールをしてみた。すぐ返事が来て、すぐ飲む約束をした。で、呑んだ。三十数年ぶりとは思えない。時間は飛んですぐさま二人の距離は縮まった。しかし、二人とも六十四歳のジジイであるため、音楽の話ばかりでなく、体調から家族から仕事まで話題は多岐に及ぶも、決して途切れることはなかった。
楽しい。楽しい。楽しい。ああ、私は、人生の時間の中で、高校時代が一番楽しかったのだな、と、今更ながら思うのである。かけがえのない、なんの衒いもなく馬鹿みたいに純朴に何かに突き進んだ三年間だった。高校を卒業してから四十五年が経つ。ずいぶん遠くへ来てしまった。でも、私の心のベースには、常にあの三年間がある。そして霜田がいる。さまざまなことが、細々となる老人の時間であるからこそ、あの頃の思いを大切にしたい。
フィリップ・ロス『プロット・アゲンスト・アメリカ』読了
読み始めは1月4日。読了は昨日22日。結構かかってしまった。
内田樹氏が推薦していたので手にした。1940年頃のアメリカを舞台にしたフィクション。
切手集めに情熱を注ぐフィリップ少年(七歳)を語り手に、そのユダヤ人家族の物語である。平穏な生活に歴史の波がヒタヒタと押し寄せる。なんと、ヒトラーの盟友である、あのリンドバーグがルーズベルトを破ってアメリカ合衆国の大統領になってしまう。少しずつ見えない波がユダヤ人家族であるフリップ一家を苦しめる。じわじわと差別が広がりユダヤ人たちは迫害されていく。家族の混乱と社会の混乱が絡みつくように展開していく。
いかにもアメリカ小説といった感じ。饒舌で細かな描写、そしてものものもの。
もしかしたら、あり得たかもしれない、アメリカ社会。
南九州旅
1月18日から二泊三日で宮崎に行ってきました。
義弟、忠君は母親妊娠八ヶ月で、この世に出てきてしまったため、生まれつき弱視です。聞くところによると、人間は生まれるにあたり網膜などの視神経系が最も遅く、最後に作られるようなのです。忠君は視神経完成途中に母体から離れてしまったため弱視というわけです。子供の頃から様々な苦労・辛酸を、生まれつきの才能と意地と根性で乗り越えてきた彼ですが、ここ数年で視力はさらに落ち、勤めていた会社も辞めてしまいました。今まで、両親と友達と一人で毎年のように宮崎にある、目の神社である「生目神社」にお参りしてきましたが、今年は我ら夫婦が彼のお礼参りに随行する栄誉に恵まれたという次第です。
車で成田空港産サンパーキングに乗り付け、手続き後第二ターミナルまで送ってもらいました。しかし安いツアー(飛行機往復・ホテル二泊・レンタカーで一人六万円)のため飛行機は往復ジェットスター、つまり、成田空港第三ターミナルなのです。かなりの距離を歩かなければなりません。目の不自由な宙君には申し訳なかった。
初日は宮崎駅そばのホテルに到着後、鳥料理屋で晩飯を済ませました。半身揚げが美味かった! 二日目はレンタカー(ヤリスクロス)でえびの高原へ向かいました。標高1200mにある高原地帯ですが天気にも恵まれ、宮崎・鹿児島の境に聳える、噴煙あげる神々しい山々を見ることができました。その後、霧島神社でお参りをし、桜島へ向かうことになりました。霧島市からも見える桜島ですが島の東側(垂水市)から地続きになっています。西側は鹿児島湾を挟んですぐ近くに鹿児島市内がよく見ることができます。ナビを湯之平展望所に設定し、島へ向かいました。展望所からは未だ噴煙あげる草も生えない岩場で囲まれた山と海を隔てた鹿児島市内がよく展望できました。うまく説明できないけれど、人間は展望がいい場所がどうやらとてつもなく好きなようです。見晴らしがいい、見通しがいい、ということは爽快感につながるようです。
いくら君がお土産屋を回ると、ななんと、「桜島大根の種」が売られているではありませんか?! いくら君の旅は、いつもそうだとは限りませんが、地元の食材を見ることと、地野菜の種をゲットするが一つの目的というか喜びであったりします。いくら君はこの風景と桜島大根の種入手ですでにご満悦です。忠君は彼の姉の方に手を置き足場の悪いところも階段も、文句一つ言わずに歩いてくれます。腹の中では、こいつら散々連れまわしやがってと、毒づいているかもしれませんが、そこは長年の付き合いということでご勘弁を。
帰りは元の道を戻り、垂水市から都城市を通って、宮崎市に向かいました。我々は昭和30年代から40年代に生まれた人間です。我らの小学生時代は「あしたのジョー」と「巨人の星」です。そして都城市といえば巨人軍二軍のキャンプ地。星飛雄馬と看護婦みなさんの恋物語の舞台になった場所でもあります。そこで三人は巨人の星の話題で盛り上がります。途中、内容が曖昧な点は、後部座席の妻がネット検索し補填してくれます。阿呆なおじさんとおばさんは尽きることなく飛雄馬の恋・ライバル・大リーグボール一号二号に関する逸話で大盛り上がりし、あっという間に宮崎市に帰ってきました。宮崎のバイバスを走行中にはジャイアンツのキャンプ地である球場脇を通り、改めて盛り上がります。ちなみに三人はベイスターズファンです。この日はホテルから二十分くらい歩いて鰻屋へ。鰻丼(並)を美味しくいただきました。
三日目、この日は、本来の目的である「生目神社」へお礼参りに行きました。昨年のお札をお返しし、祝詞をあげていただきました。本願叶ったのが10時少し前。レンタカー返却時刻が14時。まだまだ遊べます。昨日は山だったので、今日は海。海岸線を南下し、鵜戸神宮へ。そこから北上しがてら、サンメッセ日南(モアイ像が感動的)・青島神社へ。時間ギリギリでレンタカーを返し、15時45分発の成田行きへ乗って無事帰宅したのでした。帰りの高速は平日夕刻のため、渋滞を覚悟していたのですが、思いの外スムーズに流れ一時間半で希望が丘へ帰ってきました。
お疲れ様でした。ちゅちゃんありがとう。またどこかへ行こうね。
銀座・新橋・浜離宮
今年最初の江戸散策は,銀座・新橋界隈です。
東京駅を八重洲口から銀座に向かうのですが,最初に目に入ったのがヤンマーのビルだったので,少し驚きました。
都会には完成がない。やはり,古いビルを壊し新しいビルを建てていました。
銀座の本通りを一丁目から八丁目まで歩きました。大きなスーツケースを押した外国人観光客がたくさんいます。欧州系もアジア系も満遍なくです。やはり銀座は日本一の高級繁華街なのでした。
新橋では,居酒屋一力でランチをいただきました。飛び込みでしたが,リーズナブルで上品な美味しい昼飯にありつけました。
新橋から歩いて10分程度で,浜離宮恩賜庭園に到着です。電通・朝日新聞などのどでかい高層ビルの中に,それは忽然として現れます。まったく陳腐な表現ですが,都会のオアシスです。その空間だけ,時間も空気も違います。
徳川将軍家の鷹狩り場だったそうで,広大な空間に江戸時代の空気が満載です。よくもまあ,こんな空間を残しておいてくれたものだ。放っておけば民間にすべて食い荒らさらていただろうな。こんな時だけ,公の存在に感謝します。
さっとネットで調べたところ,ここから浅草に行く船が気持ち良い,などの文言にあたり,船着場に向かいましたが,今日は運行しておらず残念。
それでも,暖かな日差しの元,重い上着を抱えて,園内を散策することはとても気持ちが良いものでした。
少し疲れたのでベンチに腰掛け空を見上げると,高層ビルとその合間にヘリコプターが。伸びをしようと木製のベンチに手を這わすと,指先にチクッと痛みが。見ると右手中指に木の破片が刺さっています。抜こうにも抜けず,小さな痛みを抱えながら,公園を後にしました。
心地いいばかりではなく,トゲも刺さった,小さな旅でした。
阪神淡路大震災30年
1995年1月17日未明,近畿地方に最大震度7の揺れが襲った。ビルや高速道路が倒壊し,下町は火の海になった。村山内閣の情報収集は遅く対応もてんでなっていなかった。
職場で授業の合間にテレビを見るのだが,これといった情報は入ってこない。
帰宅後,夜のニュースですようやく現地の映像が流れた。悲惨極まるものだった。阿鼻叫喚の,まさに地獄であった。
三宮のサウナには当時の街の様子や隣のビルにもたれかかっているこの施設の以前の姿がパネルになって展示されている。ちなみにここの水風呂は,通年11.7度である。
この悲惨な災害から唯一実りがあった事柄はボランティアである。日本中の意思あるものが集まり,数ヶ月にわたって瓦礫を撤去し,避難所で衣食住の手伝いをした。
ようやく日本でもシステマチックなボランティアシステムが動き出す機会となった。
同僚の吉田君は,正義感あふれる熱血漢であった。たまたまその年度の受け持ちが3年生だけだったので,卒業試験の処理を終えると,2週間の年休を取り,寝袋を持って神戸に飛んだ。
彼は,いくら君からすればバカみたいな働き者であった。仕事・部活等でほとんど休みを取らない。
職場が変わり,年賀状のやり取り程度の付き合いになった際,毎年葉書に書かれていることは,「記録を更新した,今年は300日学校にいた,320日仕事した,なんてことばり。」そんなやつだから,年休などいくらでもあるし,ボランティアのために取得するのは全く惜しくない様子であった。
帰郷後,いくら君に熱く熱く,関西の現状・ボランティアの状況,問題点を語った。
その時,彼は33歳。いくら君の一つ年下であった。
毎年,年賀状を交わし,互いに簡単な現状報告をした。急に電話がかかってきて,相模大野で飲んだこともあった。一番驚いたのは東京ドームのジャイアンツ戦に誘われたことだ。息子と行くはずだっだが、熱でも出したのか,行けなくなったので,いくら君,どうだい?って。
勿論誘いにのった。チケット代を払おうとしても,ガンとして受け取らない。オレンジのタオルを買って,息子さんの土産にといった渡した。至極,恐縮の程であった。
ある年,年賀状が来なかった。
一月の下旬に,奥さんから,彼が急死した旨の葉書が届いた。心臓だそうだ。
バカだなあ。
仕事しすぎて死ぬなんて。いくら君は吉田君を心の底から呪った。馬鹿野郎。死ぬなよ。
阪神淡路大震災の頃になると,吉田君を思い出す。
泣けて泣けてしょうがない。
馬鹿野郎。また,飲みたかったよ。
新宿「テルマー湯」
久しぶりの新規開拓,新宿「テルマー湯」に行ってきました。場所は花園神社の裏というか,ゴールデン街のそば,といえば,わかる人にはわかってもらえると思います。
まずは、ここへ辿り着く経緯から。
先月,師匠トーイちゃんと「品川サウナ」でトトノッタのち,大井町の「大阪王将」で昼飲みしたのですが,その時もらった餃子券の期限が1月いっぱいであることが判明。そこで,また「品川サウナ」に行かなければと,大井町10時に集合したものの,珍しくこの日は清掃の為,営業は13時から、との張り紙。
サクサクっと調べたら,新宿「テルマー湯」そばに「大阪王将」が存在することが判明し,さっそく攻めたというわけです。
美しい外装の4階建ての専用施設です。内装もお風呂も広くて綺麗でした。
サウナは,100度の標準タイプと59度のミストサウナの二つ。お風呂は炭酸泉をはじめ,いろいろあって充実しています。
まあ,悪くはないといった感じですが、コスパ的にはイマイチかな。
でも,場所的には日本最大級の歓楽街にあるわけで最高ですが。ゴールデン街を彷徨する癖のある方などには最高の施設かとも思われます。しかし、いくら君としては,さあ次も是非,とまではいかない,というのが正直なところです。
ちなみに,当然「大阪王将」で餃子をつまみに昼飲みし,トーイちゃんは小田急で,いくら君は相鉄乗り入れ線で帰宅したのでした。新宿から乗り換えなしで、希望が丘駅まで帰ることができます。まったくもって便利な時代になりました。